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58号線の裏へ 駒沢敏器
最終回 最後の58号線
 RBCのなかでお荷物扱いとなっていたKSBKは、広告の営業実績を毎年のように上げていった。1960年の実績を仮に100とするなら、仲村さんが入社した翌年61年には早くも120に上がり、63年には200にまで倍化した。しかしこの数字を見ても、経営部は苦りきった顔をしていた。
 「実はこの数字は見せかけで、下駄を履かせたようなものなんです」
 軍をバックとしたAFRTS(FEN、現AFN)だけではなく、親会社であるRBCに対してすら反骨的だった様子を、仲村さんは見せた。表情はやや不敵そうに笑っていた。
 「基地内で発刊されている新聞『モーニング・スター』紙に知り合いがいましてね。冠の番組をひとつつくるから、その代わりに新聞にKSBKの広告を載せてくれないかと、バーター取引をしたんですよ。ですから広告収入ではあっても利益は最初からゼロで、経営部としては面白くも何ともないわけです。しかし実績は実績なのだから、数字をまえにして文句は言えない。いちばん好きなようにやっていた時期でしたね」
 その翌年の64年、英語放送部長の仲村さんは営業課長を兼任し、RBC本体の取締役にも就任した。入社時には沖縄29社、日本4社、そしてアメリカ6社だった広告主が、沖縄60社、日本12社、アメリカ6社にまで増えていた。KSBKのTOP30 が冊子として創刊されたのも、この年だった。冊子に広告を出したクライアントにはラジオ・スポットにも相乗りするように契約をし、沖縄の地名や店舗名が、島でしか聴くことのできない英語放送局の電波に乗せられた。やがてこのホット・ステーションは口伝えでアメリカ本土でも噂となり、外資導入委員会を経てオーディションのテープをKSBKに送ってくる者も現れた。そのなかのひとりに、アーサー・ベルという若者がいた。
 採用されて沖縄へやって来た彼だったが、アナウンサーとしては何の実績もなく、KSBKのレベルは本土で予想していた以上に高いものだった。そこで彼は22歳という若さを利用して、自らの知名度を上げようと画策した。66年10月にアメリカで連続ディスク・ジョッキングの世界記録が打ち立てられたのを見て、翌年の11月に新記録に挑戦した。
 「トイレに行く以外は不眠不休でしてね。局内のスタッフがコーヒーの差し入れをするところまで放送して、記録を抜く頃にはRBCの入り口に設置されたサテライト・スタジオは、黒山の人だかりになっていました」
 局に入れないリスナーは、そのまえを通る58号線(当時は軍用1号線)に車で集結した。そしてアメリカ本土での記録を1時間上まわる116時間の記録を達成したときには、58号線はクラクションの喝采であふれた。大半はアメリカの若い軍人で、そのとき沖縄はベトナムという地獄への入り口であるだけではなく、彼らにとって忘れられない故郷となった。
 「RBC本社の入り口といえば、こんなこともありましたよ」
 話すこともそろそろ尽きてきたような空気が漂い始めたころ、仲村さんは最後にひとつ面白いものがある、といったような顔を見せた。何年だったかは忘れたが、RBCが労使闘争に入ったんです、と彼は言った。
 「1階の入り口ではピケが張られ、2階のホールには組合員たちが集結していた。3階にいた私たちは固唾を呑んだまま、ストにだけはならないでくれと内心思っていました。こっちには、放送しなければいけない広告が何日分もあるんですから。ところがスト権が確立されて、階下から怒号のような音が聞こえてきたんです。さあそれではということで、僕らKSBKの関係者は機材を持って外へ出ました。ところが肝心の広告テープを持ち出すのを忘れていましてね。仕方がないから深夜になるのを待ったのです」
 闘争は膠着状態となっており、仲村さんと技術課長の知名定男は、ピケを張っている者の目を盗んでこっそりと社内へ侵入した。そして音を立てないように3階へと駆け上がり、テープの収められた箱を窓から降ろした。しかしそれだけで、問題が解決したわけではなかった。
 機材とテープは共に確保できたとして、ではどこから放送すればいい? VFW(退役軍人向けの高級クラブ)から音楽のライブ演奏を定期的に放送していた彼は、知己でもある支配人に相談してみようと思った。クラブの支配人はダンスフロアの一画を使うことを快諾してくれ、KSBKはいつものままに電波を送り続けた。
 しかし米軍の上層部に目を着けられるのは時間の問題で、支配人としてもそれ以上の放送を断らざるを得なくなった。半日でクラブを出ていくように言われ、いつ解決するとも知れない闘争を横目に、仲村さんは広告を流すことだけを考えていた。
 「それで最後にはどこへ行ったと思います? スクラップ・ヤードですよ。あてもなく車で彷徨っているときに、廃車の置き場が目に入りましてね。そこの事務所にいる責任者に事情を説明したら、金など要らないから好きなように使えということで、幌つきの2トン車をスタジオ代わりにして、DJを押しこめるように乗せました」
 結局のところ争議は3日間で終わり、そのとき『モーニング・スター』紙は、スクラップ・ヤードから放送を流し続けたKSBKのことを「ジャングルのなかからのKSBK」というヘッドラインを立てて賞賛した。
 「広告が流れなくなるだけで、息の根が止まるわけです」
 お茶を口にした仲村さんは、ふと時計に目をやった。奥方の介護をしに自宅へ戻る時間が、迫ってきていた。
 「上向きになったとはいえ、実際はいつも緊張状態です。ですからストのときも、音楽は使いまわしでもいいから、とにかく広告だけは流さないと、と思っていました」
 ほんのいっときのことではあっても、世界に類を見ないユニークな放送をしてみせたKSBKだが、現実には沖縄を代表するテレビ局に間借りをしているにすぎなかった。いつまでも存在する局ではなく、沖縄の日本への復帰話が本格的にまとまってきたとき、KSBKはあえなく閉ざされる運命を迎えつつあった。それはKSBKのスタッフ誰もが感じていることであり、そして承知していることだった。
 「68年にRBCの支社長として大阪に行き、1年半後に戻って来るときは、そのままRBCに残るのかと思っていました」
 自社の従業員をすべて帰した仲村さんは、暗くなり始めた事務所の鍵を自分でかけた。そして戸締りを確認して、特にこれといった感情もない表情で僕に言った。
 「ところがまた、KSBKへの配属になりました。なくなるとわかっている部署だというのに、これではRBC取締役という肩書きも、名ばかりだと思いましたね。自分の役割は終わったんだと、そのときにはっきりと感じました。だから自分から辞めましたよ。これでもう放送局のことは忘れようと決意しました。故郷に戻って家業を継いで、これでまたゼロ同然からのスタートだな、と……」
 僕が車を止めてある場所まで、彼は案内をしてくれた。握手をして別れることになるのかと思ったが、互いからすんなりとその手が出ることはなく、仲村さんはそのときごく薄い苦笑いを浮かべて言った。
 「僕の学生番号を知っていますか? 琉大のときの番号です。実は17番という、若い番号なんです。第一期生であったことに、いまでも自分で驚いてしまいます」
 梅雨が明けたばかりの58号線を、車で走っていた。空はあくまでも青く、いくつかの雲が素早く平行に動いていた。目をどこへ向けても色が鮮やかで、フェンスの向こう側にひろがる芝生は平和の象徴のように映った。
 そろそろ「ジミー」が見えてくる頃だった。傾斜が強くなった坂を、上がり始めたときの右。目に入ったオレンジ色の看板は一瞬にして後方へ消え、坂の頂点を越えると、眼下にキャンプ・フォースターの光景がひろがった。そこには大きな建物がないため、視界が先まで抜けていた。空はより青く大きく、どこの国の道路を走っているのか、一瞬だけわからなくなりそうになる場所だ。
 あのアップルパイから始まった。かりゆしウエアを着た男性が、それをいくつも買い求めていた。那覇空港の出発ロビーでの光景だから、彼は沖縄出身の同胞たちから、ジミーのパイを買ってくるように頼まれたのだろう。
 おそらくは日本で働いている彼らは、他にもっと上品なアップルパイがあることくらい、とうに知っているはずだ。しかしどうしてもジミーでなければならない理由が、彼らにはあった。日本では買うことのできないジミーのアップルパイを持ち帰ることを、その男性は強く託されていた。
 まったく見知らぬ人たちなのに、彼らがパイの箱を開けるときの表情が浮かんだ。子供のときから食べて育ったアメリカの味を、いまでも懐かしく大切にしている人たちがいる。沖縄が日本ではなく、アメリカだった頃の記憶を彼らは原点としている。いまにしてみれば27年間という限られた期間ではあったけれど、そのときに生きた人たちの思い出に残る場面はいずれも、どこかしらアメリカと結ばれているのだ。
 58号線沿いに並ぶ店舗や家屋は、いまだにアメリカ時代の空気を残している。コンクリート・ブロックの建物、基地の脇に建つホテル、ドライヴ・インのような構えを残すハンバーガーの店。しかしそのどれもが、いまや老朽化を隠せなくなっており、やがて消えてゆく運命に晒されている。あと10年もしないうちに、大半は新しいものに取って代わられることだろう。そのときアメリカとじかに接した世代の人々は口を閉ざし、自分の内面にだけ残る光景と静かに会話を交わしながら、特にそれを伝えることもなくこの世を去ってゆく。
 その記録をいまのうちに残そうという気持ちなど、少しもなかった。沖縄の人を虜にしたアップルパイがどのようにして誕生したのか、最初はそれが知りたいだけだった。軍事基地を置いて互いに反目し合う沖縄とアメリカがある一方で、甘いパイを焼き上げるために手を貸し合う沖縄とアメリカも、そこにはあった。通じ合う言葉も持たないまま、戦争をするために南の小さな島に駆り出されてきた人たちと、それを疎ましく思いながらも受け容れようとした人たちとの、不思議な交流に一端でも触れてみたいだけだった。
 いまの58号線を北に走った。西陽がまぶしく、右手にある基地の一画では、フリーマーケットが催されていた。アメリカ人と、沖縄の人たちが、身振り手振りで会話をしている光景が目に入った。戦争をするための拠点であると同時に、そこは新しく接点が生み出される場所でもあった。そしてその接点から何が始まり、思い描いていたはずの人生がどこまで変化をたどってゆくのか、いまはまだ誰も知らない。ただひとつわかっているのは、赴任してきた場所にもアメリカ同様に人間の生活があり、普段は軍服を着る獰猛なアメリカ人も、話しかけてみれば普通の人であるということだ。
 陽が沈むまえに嘉手納基地へ行こうと思った。基地の向かいにある建物の屋上から滑走路を眺め、それが夕陽に染まってゆくところが見たかった。夜へと時間を譲ってゆくときの基地の光景は殊のほか美しく、闇にはやがて戦闘機を誘導する照明が浮かび上がる。
(了)

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