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58号線の裏へ 駒沢敏器
第48回 戦時下のカーニバル
 アメリカ人の上司を失った仲村嘉恭よしまささんは、英語放送部副部長の肩書きのまま、いっさいの期待と責任をひとりで背負うことになった。座安盛徳社長からは「心配などせずに、好きなようにやれ」と励まされ、専務の平川先次郎は懇願するかのように「沖縄とアメリカの架け橋になってくれ」と、熱意のすべてを仲村さんに預けてきた。沖縄出身ではなく、しかも英語とアメリカ人の気質を理解する仲村さんは、それだけに両者の中間的な位置に立つことのできる類まれな人物で、RBCにとっては最後の切り札でもあった。
 入社してみたKSBKの財政状態は破綻寸前で、仲村さん本人の言葉を借りるなら「いまにでも潰れそう」だった。しかも部長を失ったKSBKの現場の混乱を見て取ったAFRTS(FEN、現AFN)は、その隙を狙ってアナウンサーの引き抜きにかかり、小さなライバル局を本気で潰しにきた。
 「軍の威光を借っての、大人気おとなげない嫌がらせですよ」
 結局はその巨大な機構を向こうにまわして勝利を得た仲村さんは、得意げで楽しそうな表情を隠さずに言った。「彼らには、小さな沖縄の島にもうひとつラジオ局があることが、生理的に許せなかったのでしょう。だったらと、こちらも一寸法師のような心意気で臨むことにしました。物騒な言い方かもしれませんが、戦いを挑むような気持ちでしたね。これは喧嘩だと思いました」
 部長不在のまま少数先鋭化の試案を彼は早急に練り上げ、アメリカ人ディレクターとアナウンサーの積極的登用、そして社内的には沖縄人による技術・営業スタッフの充実化を図った。危機的状況に加え、人員の削減とそれに伴う刷新が逆に功を奏したのか、仲村さんのもとに集まったメンバーはそれまでのようにいがみ合うこともなく、一丸となってそれぞれの持ち場に力を集中させた。
 自分のアイデアがプログラム・ディレクターに次々と採用されていくことにアナウンサーたちは気をよくし、放送には自然と勢いがついてきた。「アナウンサーとの付き合いはそれほどありませんでしたが、アメリカ人ディレクターとはようけ酒を飲みに行ったもんです」と、仲村さんは言う。
 「選曲を若者向きに絞って、軍人が喜ぶようなものに変えていきました。AFRTSでは『軍人たる者は』とか『兵士であっても外交官としての自覚を』などということを放送していましたから、若いリスナーがKSBKの方へなびいてくるのは当然のことです」
 放送に勢いがついて若者からの人気が集まるようになると、沖縄人による営業の動きもまた活発になっていった。英語が理解できず、自分では放送を聴くことなどない民間の広告主たちも、自分の店の宣伝を英語で流してもらえば客が来るということに気づき始めたからだ。営業マンたちが持ち帰った広告案はRBC社屋の3階にあったKSBKのスタジオで即座に英語へ翻訳され、アメリカ本土と変わるところのない、最新のワンマン・コントロールのスタイルで電波に乗った。
 沖縄とアメリカの架け橋になるべく採用された仲村さんだったが、1年もしないうちに両者は共通の敵を明らかに見出していた。軍をバックにしたAFRTSの執拗な横槍が、KSBKの結束を図らずして強めていった。状況はもはや小さな英語放送局の再建ではなく、民間対軍部の様相を呈し始めていた。
 「僕らのステーション・ブレイクが、彼らは痛く気に障っていたんです」
 そう言って仲村さんは、トップ30の冊子を裏へ返してみせた。そこには「The island’s only music&news station! Survey Proven No.1」(島でただひとつの音楽とニュースのラジオ局! ナンバー1は調査で証明済み)という言葉が、誇らしげに踊っていた。AFRTSだけでも2局あるというのに、沖縄にはKSBKしか存在しないかのように「オンリー」などと言われ、「調査済み」とまで付け加えられたら、軍としては立場も何もあったものではないだろう。
 「番組と番組のつなぎ目に、広告と並んでこのアナウンスが入るんです。このときNo.1だけは謳わないでくれ、と軍部に言われましてね。米兵の教育に悪影響を及ぼすとか、KSBKを聴かれたのでは軍の緊急放送に支障をきたすとか、そんなことを言って圧力をかけてくる。向こうとすれば税金を使って兵士たちのために放送をしているのに、KSBKはただの金儲けじゃないか、という意識もあったでしょう。どっちがNo.1なんだ、と。しかし結果はリスナーが出しているわけです。本当のNo.1がどちらなのか」
 ベトナムの戦地で奇跡的に生き延び、帰ることはないと覚悟していた帰還兵たちは、KSBKの電波が入るところまで来ると、洋上でラジオを聴いて気勢を上げた。ロックが聴けるのがうれしいというよりも、聞き覚えのあるKSBKの番組を再び耳にすることは、何よりも生きている証に他ならなかった。そして輸送船が沖縄本島の東側にある勝連半島のホワイトビーチに到着すると、彼らは真っ先にKSBKのかかっている店に向かった。
 「その頃は那覇の波之上なみのえにあったバーやクラブからも番組を実況中継したりしていましてね、店の名前を出すことで広告費を取ることができたんです」
 自分たちの打つ手が次々と当たっていた当時の様子を、仲村さんは雄々しい顔つきで説明してくれた。
 「輸送船がビーチに入ると、兵士たちは先を争うようにその店へ向かったものです。店はあっという間に満杯で、中継を急遽延長するようなこともありました。軍がいくら圧力をかけてきても聴取率ではAFRTSに勝っているわけですし、広告の7割は地元の民間が占めていましたから、怖くも何ともないわけです」
 業を煮やした軍部も、ただ指をくわえているばかりではなかった。たとえば1964年4月、プログラム・ディレクターを兼任していた人気DJのステュアート・ライダーは、VFW(退役軍人クラブ。かつては浦添市のキャンプ・キンザーの一角にあり、高級クラブとして人気があった。ルイ・アームストロングからビートルズまで、名だたるミュージシャンたちが慰問ライブをしたことで知られた)からの中継の帰り、待ち伏せをしていたMP(憲兵隊)の検問で車を止められそうになった。酒を口にしながら放送をしていたとの密告があり、軍は飲酒運転の罪で彼を捕まえようと画策したのだった。
 ライダーはそのまま検問を突破し、追いかけるMPたちの車を振り切った。しかしパトカーが召集されて停止させられ、出頭を求められた彼は、早口をまくし立ててその場から逃げ去った。そして那覇のスタジオに到着すると、相棒のDJであるジョン・パリッシュを相手に自分がいま受けた体験をニュース番組のなかで報告した。軍部をこれでもかと中傷し、「最新の装備を誇る米軍のMPが島じゅう走り回って捕らえたのは、善良なる一市民でしかなかった」と声を荒げた。
 「さすがに僕らとしても、彼を解雇せざるを得ませんでした」
 軍の圧力に屈するまえに辞職を勧告した仲村さんは、そう語った。しかし残念そうな様子は少しもなかった。
 「ライダーという男はスケールが大きくてね、悪びれることもなくそのままオーストラリアへ旅立ったんですよ。向こうに着いたらナカムラにカンガルーを送るなどと言う始末で、58_48.jpg何と返事をしていいのか困ったものです」
 KSBKには、ベトナム戦争のさなかだというのにけしからん、という投書も多数寄せられた。しかし戦争だからこそ陽気に騒いでいることを、局のスタッフと若い軍人たちは共に理解していた。

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