しかし基地のなかへ一歩でも入ればそこには自分に与えられた場所があり、顔なじみとなった仲間の教師たちがいた。仲村さんは彼らとごく気軽に会話を交わすようになっており、仲間のひとりからある日感心したように言われた。
「ナカムラさん、ずいぶんと英語が上手くなったねえ。最初は何を喋っているのかわからなくて困ったけれど、いまではもう普通に話しているよ。ぼくらアメリカ人とほとんど変わらないじゃないか」
他の仲間たちも、彼の上達ぶりに驚きを示して賞賛した。本人はそれまで気づかなかったものの、そう指摘されてみて初めて、ほとんど意識することなしに英語を使っているのが自分でもわかった。
「内心では自信を失いかけていましたが、大学にいたのでは英語など身につかないと腹を決めていたのも確かです」
そのときの英語をいまでもどれくらいに操れるのか、そのようなことはいっさいおくびにも出さずに彼は言った。奄美大島や沖縄の言葉さえ口から出ることはなく、彼の話す標準語はごく自然で丁寧なものだった。
「アメリカ人の仲間に自分の英語を認めてもらえて、本当に嬉しかったですよ。これで胸を張って大学に戻れると思いました」
琉大英語学科の誰と比べても、基地を経由した彼の英語力は群を抜いて優っていた。しかし休学していた間に大学では急速に整備が進み、教育実習を履修しなければ高校で英語を教える教員資格が取得できない制度が確立していた。アメリカン・スクールでの1年間を実習として認めてもらえるように彼は大学側に嘆願したが、それが叶えられることはなかった。当時の沖縄では安定した高額収入が約束されていた高校教師の道を諦め、その後もアルバイトの職を転々とするしかなかった。地元の最高学府を修めたというのに、それでも沖縄本島以外の者に対する就職の壁は、依然として厚かった。
そのときに彼を救ったのは、やはりまたしても米軍基地だった。本島では異邦人扱いも同然の仲村さんも、基地のなかでは同胞のように親密に受け容れられた。英語を理解する者に対して、逆にアメリカは分け隔てなく開かれていた。彼に声をかけてきたのは、ハワイに戻ることが決まった知り合いの日系二世だった。
「キャンプ桑江……アメリカ人はクワエの発音ができずに『キャンプ・クィー』と言うのですが、そこにある教育部で日本語を教えていた二世の友人が、自分の後継者に僕を推薦してくれたんです」
キャンプ桑江に設けられていた「教育部」と呼ばれる機関は、基地に所属する若い軍人たちに外国語と外国文化を教えることを主たる目的としていた。ほどなくして本土のメリーランド大学のエクステンション(海外分校)として認められることになるほどの実績の高さとカリキュラムの充実ぶりを誇っており、赴任期間中にここで外国語を学べば、学歴の低い若い軍人であっても単位を取得することができた。帰国後に軍の奨学金制度を利用すれば、安価で大学進学をはたすことも可能で、軍役を進学へのステップにしようとする若い軍人たちは、講師の話す内容をひと言でも聞き洩らすまいと、熱心に講義に臨んだ。
自分の講座が大学の単位になる以上は、仲村さんとしてもそれ相応に真剣にならざるを得なかった。英語力以上に日本語の力と知識が試され、大学の講義と同等のレベルに上げてゆくうえでも、文法を精度高く効率的に理解させるための方法を自ら開発するほどの努力が必要とされた。そして気がついてみると、講師に就任した当時に使用していたテキストでは、まったく飽き足らなくなっていた。
「英語による日本語の文法の本を、自分で書こうかと思ったくらいでした」
そのときだけは仲村さんも、誇らしそうに目を鋭く光らせた。表情には繊細とも豪放とも取れる笑みが浮かんでいた。
「沖縄独自の教科書を作ろうかとまで、本気で思いました。というのも、その頃からアメリカ人のものの考え方とか気質とかいったものが、体験的にわかってきたからです。ひとことで言うなら、私にとってのアメリカ人は本当に気さくでいい人たちでした……。このあいだまで戦っていた敵で、しかもこちらは徹底的に打ちのめされたというのに、彼らはまったくそういうことを感じさせなかった。どこにも威張ったところがなくて、常に公平で真摯だった。僕はテレビの教育番組にもレギュラーで出演するようになっていましたから、沖縄や日本のことをアメリカに伝える仕事も悪くないと考えるようになっていましたね」
ラジオ放送ばかりではなく、AFRTS(FEN、現AFN)では、キャンプ桑江の教育部で行われているような外国語の講座を、テレビ番組として放映し始めていた。仲村さんはそこで日本語講座の講師として登用され、その番組は当然ながら基地の外でも観ることができた。フェンスの向こうにある米軍が発信するテレビの画面でほぼ完璧な英語を操る日本人の姿に、そのときRBC制作部長の川平清は釘付けになっていた。
沖縄各地のカソリック系教会から月報を集め、それをローマの大司教へ送るのが仲村さんの仕事だった。教区の莫大な資金も彼に管理が任されており、ボスからの信頼は厚かった。自分の妻が敬虔な信者だったこともあり、彼はこの仕事に大きな不満を抱いてはいなかった。しかしその内容については専門とはいえず、放送の世界についても何ひとつ知らない彼は、逆に大きな岐路に立つことになった。
いずれも英語を活かせる職場とはいえ、一方は世界的規模を持つ組織で、もう一方はまったくの新しい仕事で地元放送局の一部門にしかすぎない。しかも双方はまったく逆の方向を向いており、若者にポップスを提供するKSBKは反権威的な姿勢さえ見せている。
最終的にKSBKを選んだ理由を仲村さんは僕に明言はしなかったが、「素人の仲村にさせてみようかと思ってくれた」という言い方が、彼の口からそのとき洩れ出た。
1961年5月、彼は身辺をすべて整理して、RBCの系列である英語放送局KSBKに就職した。そのときの肩書きは「英語放送部副部長」。仲村さんの就任と同時に、局内の第二編成課長
を務めていたオスカー・ルリアが部長職であるステーション・マネジャーに就任した。しかしルリアは、就任から3カ月もしないうちに祖国へと帰ってしまった。何の知識もないまま直属のアメリカ人上司を失った仲村さんは、本来であればルリアが負うべき責務のすべてを、突如任されることになった。次回更新予定日 7月5日
