Web草思
58号線の裏へ 駒沢敏器
第46回 バラックの家と自転車
 トップ30の冊子を、いま初めて見るもののように感心して眺めていた仲村さんは、ページを裏表紙から開いた。そしてそこにある英語の広告を目にして、ふたたび懐かしそうな眼差しに戻った。目の動きで、広告の文章を読んでいるのがわかった。40年ぶりの再会であるはずだった。
 「ペトリのカメラですよ。ここにはお世話になりましたねえ……。毎号のように広告を出してもらって、この最後のページが定位置でした。当時は人気のあるカメラだったんです」
 ペトリ社製の35ミリ・カメラは戦後の人気をニコンと二分しており、機能は同じでも価格はライバルの約半値だった。アメリカに多く輸出されていたこともあって、沖縄では人気の1台となっていた。軍人・軍属はもちろん、中間層以上の沖縄人たちにとっても、ペトリは家族の記録を残しておくうえで重要な役割をはたした。瞬く間に世相が変わる時代で、誰もが新技術の搭載されたカメラで写真を撮りたがった。
 ページを繰ってゆく仲村さんは、ところどころで手をとめた。ヒット・チャートに目をやることはなく、KSBK営業部の人間と共に集めた広告を見ることの方が、嬉しそうに見えた。彼は自動車ディーラーの広告に目をとめ、そしてAKAI社製のオープンリール・テープデッキの広告をしばらく見つめていた。
 「沖縄から奄美に戻ってきて40年近くにもなりますが、今回が初めてです」
 KSBKの冊子をテーブルに置いて、彼は言った。そして飲み物を口にし、冊子を丁寧に閉じて僕に差し戻した。老齢だから動きがゆっくりとしているのか、それとも本来から優雅な動きをする人物なのか、それはわからなかった。
 「初めてというのは、何がですか?」と、僕は顔を上げて彼に尋ねた。仲村さんはほんのりとした笑みを眼差しに浮かべて、こちらを静かに見つめていた。
 「英語局を辞めてからKSBKのことを訊かれたのは、実にこれが初めてです。僕がこんな仕事をしていたことなど、女房以外には島でも誰も知りませんし、自分から口にしたこともありません」
 「他のどなたかから取材を依頼されたことは?」
 「それもありません。ですからこのまま、誰にも言わず消えていたところです。さて、どこからお話すればいいか……」
 1945年、終戦を迎えた奄美大島はもはや日本ではなくなっていた。沖縄と同様に琉球政府の管轄下に置かれ、実質的にアメリカの支配下となった。しかし島に軍施設や関連産業はほとんどなく、ただ単に日本から切り離されたのが実情だった。そのとき18歳だった仲村さんは、当然ながら旧制高校を経て大学に進学しようとしていたが、その道が完全に閉ざされてしまった。「日本の大学に進むには密航しかないし、かといって沖縄は戦後の混乱で学校どころではなかった」と、彼は回想する。
 「だから他のことをして、時間稼ぎをするしかなかったですよ。警察学校に入ったり、友人と一緒に石鹸工場をつくってみたり」
 奄美大島の名家の子息たちは、最高学府へ進むことに飢えていた。しかし日本復帰の話はなかなかまとまらず、その一方で沖縄では「文教学校」が1946年に急ごしらえで開設された。ここを卒業すれば沖縄の高校で教鞭を執る資格が与えられ、2年後の1948年には外語部が独立して「外国語学校」が本科として始まった。卒業と同時に通訳官ないしは翻訳官の免許が与えられると聞いた仲村さんは、それでビジネスへの道が拓けると考えた。身に着けた英語で香港を経由して、一旗揚げて帰ってくることも夢ではない……。そして彼を含めた奄美大島の出身者10名は船で海を渡り、那覇港からアメリカの軍用トラックで学校のある首里まで運ばれた。
 地元の新入生たちよりも歳を取っていた彼らは、離島出身ということもあってぞんざいな扱いを受けた。与えられた寄宿舎も名ばかりで、それは野戦用のテントでしかなかった。少しでも遅れを取り戻そうとした彼らは速成科での約半年間を、英語の学習に捧げた。1949年、仲村さんは既に22歳になっていた。
 「テント同然の寮を見て、さすがに早まったかと思いましたよ。1953年に奄美が日本に復帰するとわかっていれば、それまで待っていたかも知れません。しかし当時は大急ぎで英語を覚えるしかなくて、翌年には基地を造成する会社に通訳として就職したのです。ところが、そんな短い期間で覚えた英語が通用するはずがない。島を出て苦労して沖縄まで来たというのに、これではまずいとさすがに焦りました」
 しかしその年の5月に琉球大学が開設され、外国語学校の卒業生はそのまま同大の英語学科への入学が認められた。1年でも早く社会人に復帰したかった彼は、英語学校での半年分を1年間の単位として強引に大学側に認めさせ、2年生からの編入となった。そして翌年の5月には現在の夫人と結婚をした。若くして自分の会社を持ったこともある彼にとって、24歳での結婚は学生という身分でありながらも決して早いものではなかったのだろう。
 学費と生活費を捻出するために、ふたりで昼夜を問わず働いた。最初に住んだ家は屋根が茅葺きのバラック。すわったままどこにでも手の届くような有りさまで、良家の子女であった夫人の「新居」を訪ねた彼女の父親は、「何とまあ便利な家であることか」と、貧しさに驚いていたという。
 その後まもなくして、夫人が新しいアルバイトを見つけてきた。キャンプ瑞慶覧ずけらんのなかにあるアメリカン・スクールの初等部(小学校)で、日本の伝統的な文化を英語で教える講師を探しているのだという。基地内の仕事であるためそれまでの収入よりも多く、仲村さんは一も二もなくこの話に乗った。そしてふたりは瑞慶覧の米軍施設にほど近い、北中城きたなかぐすくへ住まいを移すことになった。
 少しは暮らし向きがよくなるかと思ったが、相変わらず学費を払うので精一杯で、家屋が多少はよくなった程度だった。それでも電気は通っておらず、ふたりはガスランプの灯りで勉強を続けた。当時買った最高の贅沢品は自転車。それですら地元の住民には目新しく、若いというのに金持ちだと思われたふたりのもとには、借金を願いに来る人も少なくなかった。
 「本当はお金などそんなにないのですが、困った人をまえにそうとは言えない。なけなしのなかから貸してあげたりして、そんな風に助け合うのが当たり前の時代でもありました。しかし実際には家には風呂もなく、週になんどか女房と普天間の銭湯まで歩いたものです。道は舗装されていなくてね、そこを歩いて帰ってくるものだから、結局はまた汗埃まみれですよ」
58_46.jpg そう言って仲村さんは楽しそうに笑った。
 お金を貯めるのに必死だった彼は琉球大学を1年休学する決意をし、その期間だけ小学校の講師の職に専念することにした。このときに身に着けた人脈と英語力がその後の人生を大きく変えるとは、彼もまだ思ってはいなかった。

草思社