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58号線の裏へ 駒沢敏器
第45回 KSBKを救え
 1955年9月に開局したKSBKは、そのとき既に30社もの広告主を抱えていた。当時の沖縄に居住していたアメリカ人は軍人・軍属とその家族を合わせて約8万人、英語のみの放送でも広告媒体としての潜在力が充分にあると踏んだRBC社長・座安盛徳の目論見は、見事に的中したかのように見えた。しかしいざ放送を開始してみると聴取率は一向に上がらず、沖縄に住むアメリカ人の多くは、元からあるAFRTS(FEN、現AFN)にもっぱら耳を傾けていた。
 基地内のPX(総合雑貨店)で販売されていたラジオの多くが、当時流行していたオートチューニング(受信できるラジオ局の周波数がすでにセットされており、それをボタンで選局する)であったことも一因だが、それ以上にアメリカ人たちは、開局したばかりのKSBKを「第2の放送局」としかみなしていなかった。AFRTSとの差別化もはっきりとしておらず、開局から3カ月後には早くも広告の数が下降線をたどり始めた。アメリカ人が物を買ってくれると期待していた沖縄の企業や商店は失望して怒ったように手を引き、「英語放送局を持つことでイメージアップを図るのが目的であるから、赤字にさえならなければいい」とされていたKSBKは、早々にRBCのお荷物となり始めていた。
 沖縄人による経営陣との意思の疎通を欠いていたアメリカ人のステーション・マネジャーは、局の気勢が上がらないこともあって、しだいに悪態をつくようになった。英語力が不充分であるのをいいことに沖縄人の上司を英語で罵り、局内では占領者意識をむき出しにして、遅刻や早退もあたりまえの状況だった。上層部はやむなくステーション・マネジャーを解雇して新たな採用を試みたが、その2人目のアメリカ人の態度も前任者と同様だった。開局して1年もしないうちに、RBCはKSBKのアメリカ人支配人を2人も失うことになった。
 3人目のマネジャーとして雇用されたリチャードソンはしかし、予算が大幅に削減されたことを逆手に取って、大胆なスリム化を図ることに成功した。AFRTSでも人気を博していたラジオドラマ番組などを編成からはずし、カントリーとポップスなど若い兵士に人気のある音楽に選曲を絞り、そこへ定期的な地元ニュースを加えた「MUSIC&NEWS STATION」へと変身させたのだ。レコードとパートタイムのアナウンサーさえいれば成立するこの方法は赤字を減らすことに成功し、KSBKは何とか存亡の危機だけは免れることができた。しかし広告の出稿量を上げるまでには至らず、次は沖縄人による経営陣および営業担当者と、アメリカ人のマネジャーの間を取り結ぶ人材の確保が急務となった。充分な英語力を持ち、アメリカ人の物の考え方を理解し、かつ沖縄の人間であること……人材の発掘を求められたRBC制作部長の川平清(ジョン川平、川平慈英の父親)は、「そのような人材がいまの沖縄で容易に見つかるはずがない」と、途方に暮れていた。
 さかのぼること数年、1950年に創設された琉球大学は当然ながら国立ではなく、アメリカ本土の大学へ留学する沖縄人の子息を育成する、アメリカの大学だった。当時はミシガン大学の管轄下にあり、琉大を経由してミシガン大学本校を卒業した川平は、当地で出会ったドイツ系アメリカ人女性と、沖縄で結婚生活を送っていた。家庭内では英語と日本語が使用され、沖縄人ながらAFRTSのテレビを観るのが常だった。1959年の沖縄テレビ(OTV)開局に遅れること約半年、60年の6月にテレビ放送を開始したばかりのRBC職員としては、ライバルに水をあけられないためにも、テレビ先進国アメリカの番組に日頃から触れておく必要があった。
 そんなある日、英語を操る日本人の姿が彼の目にとまった。日系の二世ではなく、名前はヨシマサ・ナカムラといい、アメリカの軍人に向けて日本語の教育番組の講師を担当していた。英語はほぼ完璧に近く、それでいて日本語の意味・内容を伝えるその教養は、まったく日本人のものだった。川平はさっそく彼の出自を調べ、奄美大島出身で琉大英語学科の卒業生であることがわかった。年齢は33歳、野心と品性の双方を併せ持つ好漢であるように感じられた。そこで川平はナカムラの存在を座安社長ならびに山里将清専務に報告し、三顧の礼をもって説得するように命じられた。川平はその後約3カ月間、ナカムラ宅に贈り物を届け続けた。
 奄美大島の空港から南端の古仁屋に向けて、僕は国道58号線(那覇を起点に鹿児島市に達する)を車で南下していた。1961年から1970年にかけて、RBCの英語放送局長(KSBKのステーション・マネジャー)を務めた、仲村嘉恭なかむらよしまさその人に会うためだ。
 KSBKという民間英語ラジオ局が沖縄に存在していたことを渡口眞常さんのサイトで知って以来、すでに4年が経過していた。前述したようにこの間に集めることのできた情報はわずかな量にかぎられており、英語放送に関心を失ったRBC本社にも、KSBKに関する資料は保管されていないも同然だった。しかしそのなかにひとつだけ、仲村氏が自らペンを取った記事が残されていた。RBCの50周年を記念した社内用の印刷物で、KSBKにまつわる10個のエピソードを紹介する彼は、70年の退社時で既に40歳代なかばを迎えていることが判明した。だとすれば仮に存命であっても80歳前後の高齢ということになり、取材実現の可能性は高いとは言えなかった。「奄美に帰られたことまではわかりますが、現在のこととなると、私共もお答えできません……」と、RBCの関係者も口をつぐむばかりだった。
 ところがその後、仲村氏が奄美大島で海運業を営まれていることがわかった。地元の広報課がサイトで町のニュースを紹介しており、そこには高齢ながら溌剌とした様子が掲載されていた。彼はいまでも現役の社長として、地域のリーダー格を務めていたのだった。そして「KSBKについてお話をうかがいたい」と連絡をすると、彼は一瞬驚いたように電話先で押し黙り、ひと呼吸置いてから「そのことならば、いつでも歓迎です」という返事が戻ってきた。
 町にあるレストランで、僕は彼とさしむかいにすわった。そしてフォルダーからKSBKの資料を取り出してみせると、懐かしそうな目でそれらに見入った。58_45.jpg無料で配布していたトップ30の冊子を手に取った彼は、「これはもう、うちにも残っていません。僕のアイデアで始めた冊子です」と言った。
 「ラジオの人気が出てきたから、紙の広告媒体もつくることにしたんです。いかにして広告を集めて軌道に乗せるか……そんなことばかり考えていた日々でしたね」

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