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58号線の裏へ 駒沢敏器
第44回 故郷を離脱する者
 ベトナム戦争がいよいよ激化した60年代後半、テレビのニュース画像など見なくても、戦争の悪化している様子が、じかにわかる時代だった。国道58号線(復帰以前の当時は軍用1号線)には軍用車が連なり、嘉手納基地からはベトナムの戦地に向けて、B-52の巨大な機体が次々と飛び立っていった。コザの街ではマリファナやコカインが公然と売られ、小さなロック酒場では連夜のように、ビール瓶の割れる音が響いていた。コザとは離れた那覇に家のある渡口さんは、荒れる米兵たちとじかに接触するようなことはなかったが、友人関係をたどれば容易にドラッグを手にすることができるほど、当時の荒んだアメリカがすぐそこにあった。そしてKSBKからは、精神的に行き場のないサイケデリックな音楽が流れ続けていた。
 「深夜になると管理職がいなくなりますから、DJたちはマリファナを吸いながら放送をしていたものです」と、渡口さんは言った。
 「曲が終わっているのに無音のままだったり、レコードの傷で針が飛んでいるというのに、そのまま何分間も放っておいたり……。こういうのは沖縄ならではですね。何しろアイアン・バタフライをアルバム1枚丸ごとかけたりするんですよ。そういうのを聴きながら深夜1時くらいにドライブするのは楽しかったですね」
 アイアン・バタフライはサイケデリック・ロックの先駆者として知られるバンドで、ドラッグ吸引時専門のようなヘヴィーな音を繰り出していた。サウンド・エフェクターとオルガンを最大限に駆使してつくられた楽曲は1曲につき数分間に及び、彼らの代表的なナンバーである「イン・ナ・ガダ・ダ・ヴィダ」は実に約20分の長さにわたって、現世からの逃避を試みるような精神の叫びを音で展開した。ミサを思わせるオルガンの響きに重く歪んだベースの音が重なり、不協和音すれすれのギターが激しいドラミングと交錯した。酩酊した者の耳には、その音は天国からの一条の光のようにも聴こえたし、地獄からの呻き声のようにも思えた。
 生暖かい沖縄の夜の空気のなか、ラジオから流れるこの曲を聴きながら車を運転する気分を、僕は思い描いてみた。厭世の色が濃く、力強く退廃的なサウンドを車で耳にしていると、もうこんな場所にはいたくない、と思い始めるようになるのではないか。自分が生まれ育った沖縄という土地に愛着がある一方で、ここを飛び出してどこかへ行ってしまいたいという矛盾した衝動が、激しく突き上げてくるのではないか。
 沖縄人なのに、あるいは沖縄人であるからこそ、物心ついたときからアメリカの音楽や文化に影響を強く受けてきた当時の若者は、自分が大きく引き裂かれていることを否応なく感じたはずだ。沖縄にいたままでは人生が豊かに開かれる可能性は望めず、その焦燥や閉塞感は、憧れのアメリカ文化に触れることでかろうじて解消された。目のまえに基地があって、空を見上げればB-52が飛んでいる……彼らはそこに戦地の惨状をありありと感じ取る一方で、基地がもたらしているアメリカ文化の本場へと同時に夢を馳せた。
 「見かけは沖縄人だが、アメリカの血が流れている」と言った渡口さんの言葉を、僕は思い出した。沖縄人とは何かを考える苦しみから逃れられるのなら、いっそのことアメリカ人になってしまう方がいいのだと、若者たちが本気で考えるような時代だった。
 69年から復帰の72年にかけて、彼らには3つの選択肢が突きつけられていた。日本に復帰するまえにアメリカのパスポートを持ってアメリカ本土へ行ってしまうか。それとも長年の悲願がようやく叶うことになった復帰を待って、日本の内地に進学や就職を求めるか。あるいは沖縄に留まるか。3つめの選択肢は、最後まで考えたくないものだった。沖縄にいるのが嫌だというのではなく、沖縄人であることじたいが苦悶の種だったのだ。
 「僕は運転ができないから、夜ドライブをするときは、いつも友人たちと一緒でした」
 落ち着いた口調で渡口さんは語った。目つきは懐かしく穏やかだった。
 「もちろん車のラジオからはKSBKが流れていて、アイアン・バタフライとかドアーズを聴きながら、移民としてアメリカに行く夢を真剣に語り合っていました。言葉はブロークンだけれどまったくわからないでもないし、本国に行ってしまえば何とかなると思った。実際にアメリカへ脱出した友人も、何人かいましたよ。それもこれもみな、音楽というかラジオからの影響です」
 沖縄にいながらにして、当時の世代(日本では団塊の世代とほぼ重なる)は精神的故郷離脱者(エグザイル)だった。自分のいるいまこの場所がどうしても本当の故郷とは思えず、本来の自分という像は、空想のなかで描くことでしか実現されなかった。だからラジオの番組は単なる娯楽ではなく、彼らにとっては未だ実現されていない自分の像との、最もリアルな接点となった。空想であるだけにその思慕はいっそう強く募り、アメリカへ行く以外に自分を救済する方法はないように思われた。
 就職したばかりの渡口さんたちは、沖縄の夜をドライブしながらサイケデリックな音をラジオで耳にして、アメリカ人になってしまおうかと本気で口にしていた。70年にはコザの京都観光ホテルのまえで暴動が起き、翌71年にはアメリカ本土から「アメリカ兵のための反戦運動」の一環として、ジェーン・フォンダとドナルド・サザーランドによる劇団「FTA」(フリーシアター・アソシエイツ)が、沖縄にやって来た。経済的に恵まれた家の子供は琉大を経るなどしてアメリカ本土の大学へ早々と編入をはたし、復帰の72年以降に高校を卒業する者たちの一部は、日本の大学への進学を選んだ。しかしどちらからも時期的に洩れてしまったはざまの世代は、家が恵まれていないかぎり沖縄に留まるしかなかった。
 「アメリカに行った友人たちとは、いまでも連絡を取り合っています」
 これは差し上げますと言って、渡口さんはKSBKの音を録音したMDを僕に渡してくれた。
 「みんなもうじき60歳だけれど、立派に頑張っていますよ。カリフォルニア大学バークレー校に行った友人もいてね、いまではカナダで不動産業を営んでいます。僕よりもずっとブロークンだったのになあ……」
 渡口さんの奥さんは基地内で働き、その英語力を活かして自宅で英語の塾をやっている。娘さんは沖縄にあるアメリカン・スクールを卒業し、完全なるバイリンガルだ。彼女も母親の塾で英語を教えており、渡口さんの自室は夕方になると塾の教室として使われる。
 彼はふと腕時計に目を落とし、「そろそろここを空ける時間だ」と言った。2階のテラスに玄関があり、そこに集まってきた子供たちの明るい声がしていた。
「iPodとラジカセを持って、一緒にビーチにでも行きましょう。那覇空港の近くに隠れ場があるんですよ。ビールを飲みながら音楽でもどうですか」
 彼は大きなデイパックに簡単な野外料理のための道具を詰めこみ、教室として使われている部屋に「行ってくるよ」と声をかけた。その部屋からは、沖縄の子供たちが英語で話す声が聞こえていた。

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