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58号線の裏へ 駒沢敏器
第43回 土曜日のラジオとアイロンがけ
 約半年後、渡口さんの自宅を僕は訪れた。部屋は広くはなく、いわゆるオーディオ・マニアのリスニング・ルームとはまったく様相が異なっていた。機材は最高級品ではなく、性能のいい良品をひとつずつ買い足していった、あたかも手づくりのような音楽の部屋だった。
 4台のスピーカーとアンプ各種が壁の一面を覆い、他の壁3面はほぼ天井の高さまで、レコードやCDそしてテープや音楽雑誌などで埋めつくされていた。わずかに残された床部分に小さなテーブルと椅子があるため、その椅子に納まった渡口さんは、まるでコクピットにいる操縦士のようだった。回転椅子をまわせばどの機材のつまみにもそのまま手を触れられる仕組みで、彼がコンピュータを操作すると、アンプに連動されたKSBKの音がスピーカーから流れ出した。
 僕はその音にじっと聴き入った。懐かしい音楽が流れ、曲名を英語のアナウンスが紹介すると、地元業者のコマーシャルがそれに続いた。廃局になることを知った渡口さんが慌てるように録音したテープなので、コールサインはもはやKSBKではなく、郵政省から1年間だけ暫定的に認可されたサインJOROを名乗っていた。
 「KSBKを聴き始めたのが中2だから66年、父に譲ってもらったソニーのトランジスタ・ラジオでした」
 アンプのボリュームを絞った渡口さんは、こちらに姿勢を戻して言った。
 「チャート・マガジンを集めるようになったのは高校1年で、そのあたりからKSBKでかかる曲が変わってきたんです」
 「そういえば、米軍がベトナム北爆を開始したのが、65年ですね……」
 渡口さんは僕の言葉にうなずく代わりに、当時を振り返って確認するような顔をしていた。自分の青春と音楽の思い出がベトナム戦争と共にあったという自明のことを、第三者から改めて指摘されたからだろうか、複雑な想いを隠し切れずにいるように見えた。
 65年の北爆をもって戦争に介入したアメリカは激しい抵抗に遭い、戦況は一気に泥沼化した。予想外に多くの若者を戦地で失い、指揮官すら何を理由に戦っているのかわからない祖国の戦争に、兵士も一般国民もあからさまな反感を抱き始めていた。アメリカ本土から遠く離れ、ある意味では戦地に最も近い沖縄の基地でも反戦運動が繰り広げられるようになり、参加したくない戦争に駆り出される兵士たちは、ドラッグの力を借りながら激しい音楽を好んで求めるようになっていた。
 そしてその世相はKSBKにもそのまま反映され、多感だった沖縄の若者もその空気をじかに吸った。僕の言葉に少しのあいだ黙っていた渡口さんは「まあ、ここは前線基地でしたからね」と言った。
 「戦争が始まってからのアメリカ文化に、僕らも巻きこまれていたと思います」
 善き市民として地道に生きることを選んだ彼は、しかしそれとは違う生き方もあったのかもしれないという想いを、いつもどこか胸の奥にしまいこんでいるように見えた。あるいはそれは僕の思い過ごしかもしれないけれど、人に訊かれないかぎり自分の多くを語らないところが彼にはあり、そこにはある種の意志が感じられた。本気でアメリカ人になろうと一瞬でも考えた時期があったことを、いまでは懐かしく胸におさめているようだった。
 「最初の頃、僕はそれほど熱心なKSBKのリスナーではなかったんです」
 準備しておいたDVDやCD?Rからどれを選んでかけるべきか、渡口さんは次々とめくっていった。
 「沖縄に大きな基地があるとはいっても、北爆までは将校クラスとか軍属などの品行方正なファミリーが中心でしたから、KSBKもカントリーが中心だったんです。ところが急にポップスやロックが前面に出てくることになって、軍の統治下にあるFENは逆に大人しい選曲になりました。極東放送は宗教番組ばかり。そんな風に沖縄に3波あった英語のラジオ局は棲み分けがはっきりとしてきて、僕らの世代はもろにロックに影響を受けたわけです。ステップン・ウルフとか、R&Bだとアーチー・ベルとか、何を聴いても衝撃でしたね」
 渡口さんは中1のときに母親を亡くしていた。それ以来身のまわりのことはすべて自分でするようになり、高校に入ってお洒落に敏感になると、洗濯とアイロンがけが彼の大好きな時間となった。
 毎週土曜日の午後1時、RBCのロビーにはKSBKのチャート・マガジンが200冊ほど山積みにされた。高校からの帰りに彼はそこへ寄り、ホットなヒット曲の並んだ冊子を大切に家へ持ち帰った。
 自分で昼食をすませると、彼はKSBKに周波数を合わせたラジオをつけ、そこから流れてくる音楽と英語のアナウンスに心をときめかせながら洗濯をした。当時は機械などなく、手洗いだった。バイト代で買った大切なスニーカーやヴァンのシャツを自分の手で洗うのは、何よりも楽しくて充実した時間だった。そして好きな番組の終わる夕方までには、どのシャツにもきれいにアイロンがかけられていた。
 「夜は夜で、いろんな聴き方をしましたね」
 KSBKの音源は彼のもとにもわずかしかなく、それを聴き終えると彼は自分で編集したDVDの音を流し始めた。様々なアーティストによるスタンダード・ナンバーを、その曲ごとに選んで並べたものだった。たとえばサム・クックによる「ワンダフル・ワールド」だけでも、本人以外に他3曲が並んでいた。音源はすべて手持ちのレコードやCDであり、ここに整理されたナンバーをiPodに入れて外で聴くこともあるのだという。曲目が並んだコンピュータの画面を見た僕は、思わず「DJの仕事を依頼されたりすることはないんですか」と尋ねた。すると渡口さんは「趣味は趣味です」と、淡々と答えた。
 「いまはこんな風に便利になっているけれど、僕がKSBKを聴いていたときはウォークマンがまだなくてね。だから家にあるデッキで編集したテープを、親父が買ってくれた英語教材用のLLラジカセに入れて音を持ち歩いたりしたもんです。ビーチ・パーティでもよくかけたし、夜の2?3時にひとりでビーチへ行って、騒音のないところで聴いたりもした。場所を変えると、また違った感じに聞こえますから……」
 その後彼はデザインの会社に就職し、職場でもKSBKをかけていた。そし58_43.jpgて週末にはいつもの仲間が集まり、夜の58号線をドライヴして過ごした。もちろんそこでもラジオがかかっており、沖縄の若者はアメリカの音楽を最新で聴いた。ロックはポップス調のものから急激にサイケデリックなものへと変わりつつあり、ラジオから流れる音楽にも紫煙と戦争の重さが濃厚に漂い始めていた。

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