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58号線の裏へ 駒沢敏器
第42回 ラジオを愛した男
 KSBKの存在をサイトで熱っぽく伝えていた、渡口眞常さん(55歳)に那覇で会った。彼と会うのは初めてではなく、これが二度目だ。最初は挨拶がてら繁華街にある居酒屋で落ち合い、2時間ほど会話をした。取材などという堅苦しいことをするまえにまず、個人として僕は彼のことを知りたかった。どのようなラジオの遍歴を持っているのか、好みのミュージシャンやバンドは何か、話をするだけでその深度や人柄がわかるからだ。
 彼もまた探りを入れるということではないけれど、わざわざ横浜からKSBKのことを訊きにやって来た年下の男に、関心がありそうだった。サイトを見て会いに来た人はいないのですか、と尋ねると、質問はいくつか受けましたが実際に会うようなことはありませんでした、と答えた。72年までアメリカのパスポートを持っていた彼と、大和で生まれ育った僕とのあいだには、世代差以上に大きな違いがあったが、それでも互いの口から出てくる好みのミュージシャンやラジオ番組は、おおむね似通ったものだった。
 音楽に造詣が深いことはもちろん、何よりも彼が特徴的だったのは、バンドやミュージシャンの固有名詞よりもDJの名前で話が進行していくことだった。自分の音楽の履歴を振り返ったり人に伝えたりするとき、普通なら年号や演奏家の名前やヒット曲名を用いるものだが、彼が口にするそれは「チャーリー・ツナ」(70年代から80年代にかけて、FENで絶大な人気を誇った「チャーリー・ツナ・ショウ」のDJ)であったり、「ケイシー・ケイサム」(「アメリカン・トップ40」の司会DJ)であったりするのだ。「僕は音楽そのものよりも、まずはラジオなんです」と前置きした上で、彼は僕に訊いてきた。挨拶を済ませてから1時間以上も経った頃だった。
 「ところで駒沢さんは、ラジオは好きですか?」
 あまりに真っ直ぐな質問なので僕は虚を衝かれ、いまはもう聴いていない、と答えるしかなかった。すると彼は「さすがに僕も最近は聴いていませんが、自分だけはと思って50歳になるくらいまではエア・チェックしていたんです」と言った。
 「就職をすると急に仲間がラジオを聴かなくなって、それで寂しい思いもしましたね。皆あれだけ好きだったのに、何かまるで卒業するかのように、ラジオに見向きもしなくなってしまう。たまにCDを買ってきて、それで終わり。だから駒沢さんはどうなのかなあ、と思って……」
 正直なところ僕も、この20年ほどはエア・チェックなどしていなかった。アメリカの音楽が面白くなくなったり、首都圏のFM番組がトーク中心となってわざわざ録音するようなものではなくなったりしたことが原因だ。いまや自室にラジオはなく、レシーバー・アンプも押入れの隅に置いたままで、車のなかで聞くAFN(FENの現在の呼称)だけがラジオの時間だった。
 しかし中学から高校にかけて、少なくとも僕の周囲では、エア・チェックをしていない男の子などほとんどいなかった。高価なレコードは買える枚数が限られており、皆必死になってAMやFMの番組をチェックした。その週のチャートを予想して当てるのも当時の楽しみだったし、自分なりに編集したカセットを友人どうしで貸し合ったりすることもあった。ダウンロードした楽曲をiPodやMP3プレーヤーで肌身離さず持ち歩けるという点では、リスナーと音楽の距離は以前よりもはるかに縮まったのかもしれないけれど、ラジオを通して音楽に触れる時間の濃密さということに関しては、以前の方が比べようもなく濃いものだった。そんな方向へ話題を向けると、渡口さんは納得したような穏やかな顔をしていた。
 「好みのミュージシャンもいるけれど、ラジオであることじたいが僕には重要なんです」と、彼は言った。「楽曲だけではなくて、DJやラジオを通した『出会い』そのものが楽しかった。自分で気に入ったCDを買ってきて、何番目と選んで聴くよりも、いったい次に何がラジオでかかるのか、そっちの方がドキドキするんですよ」
 「シャッフル機能とは全然違いますよね」と、僕は言った。「あくまでも一方通行であることが、ラジオの魅力でした。だからこそ、特定のDJに対する信頼や尊敬が生まれるのですから」
 「そう。だからKSBKがなくなるのだと聞いたときは、本当にショックでした」
 30年以上まえに消滅したラジオ番組の音声が、渡口さんの記憶にははっきりと残っている様子だった。そして次に会うときは、彼の自宅でということになった。そこには彼の歴代のオーディオも揃っているし、わずかではあるけれどKSBKの音源も残されている。トップ30のチャート・マガジンもこの目にすることができるはずで、何よりもそんなものが詰まった、いかにも少年らしさを留めた部屋へ、僕は入ってみたかった。女の子の入れない部屋。仮に入ったとしても、少しも面白いとは思えない部屋。
 「基地があってアメリカがいて、見かけは沖縄人だけれど、僕の世代の多くは中身はアメリカ人みたいなものですよ」
 店を出て別れるとき、自嘲気味に彼はそう言った。髪には白いものが目立ち始めていたけれど、心のなかは復帰前後のままでいるような印象だった。
 「そのことがいいのかどうなのか、真剣に考え出すと深刻なのですが、アメリカの影響を受けていない自分など、いくら想像しても不可能なことです」
 僕も座間や相模原といった米軍基地の近くで育ち、週末ともなると繁華街に出てくる客は半分近くまでがアメリカ人で、FENは小学生のときから自然に耳にしていた。その意味では自分もアメリカによって基盤をつくってきたわけだが、渡口さんの言葉を耳にすると、彼とはその基盤の厚みがまるで違うように思われた。アメリカのパスポートを母国のものとして持っていた彼や同世代の沖縄人たちの多くは、そのままアメリカ本土へ移民することを、当時は本気で考えていたのだ。

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