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58号線の裏へ 駒沢敏器
第41回 そのときボブはどうなったか
 目のまえにある基地とそこからもたらされる文化は、子供の目には何もかもすべて最高のように思えた。それはあの日本ではないというだけですでに尊く、戦後の開放感は間近からもたらされるアメリカの空気や匂いと共にあった。アメリカもまた50年代半ばから60年代にかけての、豊かさの頂点に達するその前夜にあり、ベトナム戦争はまだ始まっていなかった。
 沖縄の60歳代後半から70歳代の人たちは、アメリカの映画音楽とポピュラーで育ったんですよ、と仲地昌京さんは言った。彼が土曜日の夜に持つ帯番組が1時間延びたため、その時間を利用して手持ちのレコードをかけるようにしたら、老年層のファンから葉書が続々と舞いこむようになったのだという。
 「ちょうど僕と同じ世代ですね。その年齢の人たちが10代だったときは、映画とポップスとジャズがいちばんの娯楽だったんです。NHKが『みんなの歌』で『おじいさんの時計』を最初に日本語に訳した歌詞で紹介したのが1962年。それを観た僕らは『おいおい、こっちでは47年のときにもうこの曲を聴いていたぞ』とか、ちょっと悦に入るわけです。大和は遅れてるってね」
 ちなみに「おじいさんの時計」(Grandfather's Clock)の日本での正式な曲名は「大きな古時計」といい、ヘンリー・クレイ・ワークが1878年に作曲したアメリカの民謡だ。それを彼が47年に耳にしたということは、その音は彼の自作したラジオから聞こえていたのだろう。
 「琉球大学に進むと早速ジャズ・クラブに入りましてね。先輩に誘われて基地のなかにあるクラブにも出入りするようになるわけです。僕はほら、元は技術屋だから機械にもうるさくて、『ベニー・グッドマン物語』が来たときは、テープを担いで行って映画館のサウンド・システムからじかに録音させてもらうわけです。それを大学に持っていってテープ・コンサートをやったりしましてね」
 ノンポリのお坊ちゃんと言ってしまえばそれまでだが、それでも濃密な大学時代だったということは想像がつく。彼は極東の西南端にある小さな島にいながらにして、ジャズのゴールデン・エイジをじかに体験して過ごしたのだ。そして深夜のラジオに耳を傾けながら、胸のときめく思いを葉書に書きつける多くの老人たちにとっても、それは同じことだった。彼らは多感な青春時代に、アメリカで生み出された豊かさをほぼリアルタイムで浴びた。
 大学を卒業するまえ、仲地さんは対共産圏のプロパガンダを目的とするラジオ局「VOA」(Voice of America)のエンジニアとして内定を取りつけていた。しかしその局はアメリカ国務省の管轄下にあったため、本土とのやり取りだけで3カ月もかかった。場所が那覇から遠く離れた恩納村であったこともあり、彼は待たされている間を利用して、那覇からほど近い牧港に通信所を持つ「極東放送」(現FM沖縄。当時はキリスト教の伝道が目的だった)のアナウンサー試験を受けてみた。すると合格の通知が届いて、VOAの内定は自分から取り消すことになった。極東放送ではワンマン・コントロールによる放送スタイルが確立されており、エンジニア希望だった青年はDJへの第一歩を歩み始めた。
 沖縄テレビ(OTV)から遅れること1年、RBCは1960年にテレビ放送を開始した。戦後まもない頃からラジオ放送を開始していたRBCにしてみれば、後発の民放局であるOTVは格下との意識も当時はあったはずだが、免許申請の際に諸々の事情で手間取ったRBCはOTVに遅れを取ることになり、人材の発見と確保に躍起になっていた。そして仲地さんにもアナウンサーとして白羽の矢が立った。62年、彼は極東放送からRBCへ転職をした。
 「AFRTS(現在のAFN、元FEN)でポップスを聴いて育った僕はプレスリーとかビートルズには興味がなくてね、だからそっちの方をかけていたBK(RBCの関係者はKSBKを略してこう呼ぶ)は、あまり熱心には聴かなかった」
 ジャズの流れを汲んでいない音楽は自分にとっては音楽ではないと言わんばかりに、仲地さんは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
 「ところがRBCに入ってみたら社内にBKがあるものだから、それでまた話は別ですよ。早速スタジオを見に行きましてね、ニュースを読む場所をはさんで両側に音楽のスタジオがありました。アメリカ人のアナウンサーが6?7人、放送と営業のスタッフは沖縄人でそれぞれ5?6人に2?3人だったかな。僕はひと目でも早くレコードが見たいと思って、頼んでみたら、普通の黒いLP盤じゃないんですよ。ご覧になりますか?」
 KSBKの記録をほとんど留めていないRBCだが、仲地さんと会ったスタジオと同じ階に、当時のレコードと放送機器がほんのわずかに残されていた。
 それは僕も初めて見る、何とも大きなレコード盤だった。直径はあくまでも見た目の印象では50センチくらいはあるだろうか。
 「ここにはですね、その週のビルボード100がそのまま入っているんです」
 懐かしそうな顔で彼は言った。「これが毎週、アメリカ本土とほんの2?3日遅れで届くんですからね。これをBKにひとり占めされているのは勿体ないということで、僕らはRBC側で『レッツゴー・ポップス』という番組をつくることにしたんです。英語の発音まで真似したりしてね。レコードが社に届くと、スタッフが僕のことを見つけて『ヘイ、ナカチさん。ニューワン・カミン・ヒア、レッツゴー』なんて、教えてくれるんですよ」
 60年代半ば当時、彼が親しくしていたKSBKのDJに、ボブ・ウェイルズという白人がいた。彼はプログラム・ディレクターも兼ねており、ある日、基地内で行われたベースボールの試合を放送しているときに、「ぼくが贔屓にしているチームが負けたら何でもやってやる」と、口走ってしまった。それを聞いていた海兵隊員たちは、翌日RBCの社屋に乗りこんできた。
 「ボブはどうなったと思います?」
 気の合った親友のエピソードを、30年ぶりに仲地さんは振り返っていた。
 「彼は落下傘を着けさせられましてね、そのまま基地まで運ばれていったん
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ルイ・アームストロングが基地内のアメリカン・スクールを表敬訪問した。ボブ・ウェイルズに誘われた仲地さんは、一も二もなくその誘いに乗った。「アメリカ世のときは面白かったですよ、いろいろ恩恵があって」
です。後はもう、どうなったかおわかりでしょう……それくらいに、軍人・軍属からの人気を誇っていたんですよ」
 世界でも例を見ない、占領地における民間ラジオ局は、廃止の運命を知らないまま様々な企画をしかけ続けた。少年たちはその様子を音声にしがみつくように体験し、当のスタッフたちはお祭り騒ぎのような日々を送っていた。

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