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58号線の裏へ 駒沢敏器
第40回 原点はスクラップ・ヤード
 現存している資料を少しでも得るために、僕はKSBKを経営していた琉球放送(RBC)へ向かった。RBCは那覇の中心地である久茂地にあり、大きな現社屋は58号線に面していた。
 幻のラジオ・ステーションだったKSBKの一端に少しでも触れたいという気持ちの一方で、多くは望めないという覚悟も内心では決めていた。総務局次長の玉那覇有徳さんが電話で応対してくれたときから、反応が鈍かったからだ。いまさらそんなことを訊かれてもという戸惑いと、期待に応えられないもどかしさが彼の声には感じられた。
 応接ロビーに現れた玉那覇さんは、社名の印刷された大きな封筒を手にしていた。厚みはまったくなく、残されている資料はこれですべてなのだと思った。
 「引越しを繰り返したり新社屋ができたりで、そのたびに資料が処分されてしまったんです」と、開口一番に彼は言った。封筒から取り出された資料は、雑誌の記事ひとつと簡単な社歴を記した書類、そしてKSBK開局時の様子を伝える文献のコピーのみだった。
 「50年もまえのことですから、仕方がないと思います」と、僕は言うよりなかった。「それに1973年に閉局した当時は、英語のみの放送がその後価値を持つことになるとは、誰も思わなかったでしょうから……」
 「いまでこそ沖縄のラジオはハーフの人が重用されて、英語のアナウンスが花盛りですけれどね」と、彼は言った。「しかしKSBKは貴重な存在だったわけですし、多くの伝説を生んだのですから、社としても資料を残しておくべきだったと思います」
 見たところ玉那覇さんは50歳代の後半のようだった。直接尋ねはしなかったが、その年齢であれば彼もアメリカの音楽を聴いて育っているはずだ。当然、KSBKの1リスナーでもあったはずで、管理職にある彼がわざわざ対応をしてくれたということは、現在のRBCの若い社員はKSBKの存在すら知らないでいるのだろうと思った。
 「局がもし残っていたら、いまでも格好よかったと思いますよ」と、彼は言った。「まったくアメリカのスタイルそのままでしたからね。いまではワンマン・コントロールの放送なんて考えられません。ディレクターや作家が書いた台本のコピーを、ほぼそのまま読むだけですから」
 そう言うと彼はふと、何かを思いついたような顔をした。肝心なものを忘れていた、というような表情だった。そして急に携帯電話を取り出し、局内の誰かと話を始めた。口ぶりからして、若手のディレクターを相手にしているらしかった。
 電話を切った彼は「これは失礼」と言った。
 「ワンマン・コントロールといえば、うちには仲地昌京しょうきょうさんがいます。RBCの花形アナウンサーだった方で、もう引退されているのですがいまでもうちで帯番組を持っておられるんです。打ち合わせで社に出てきていないかと確かめたのですが、今日はあいにくその日ではないようで……」
 さらに詳しく聞くところでは、仲地さんはその昔KSBKのチャートに倣った独自の音楽番組を担当していたようで、技術面も含めたラジオの知識と昔のアメリカン・ポップスに関しては、生き字引と言っていい人物であるらしかった。
 「彼はKSBKにいたのですか?」と、僕は玉那覇さんに訊いてみた。彼は、それはどうかなあというような難しそうな顔を一瞬して、「RBC専属ですからKSBKとじかには関係なかったはずですが、行き来はあったと思います。同じ局内にあったのですから」と、言った。
 彼はいま電話をしたディレクターの名前と番号を教えてくれた。それを手に僕は沖縄を後にした。成果が少なく空振りだった印象と、それでも突破口だけは開かれたのではないかという期待が、同時に胸に上がった。
 自宅に戻った僕はさらに資料を個人的に探し出し、仲地昌京さんに訊くべきことを整理した。そして半年後、もういちどRBCの社屋を訪ねた。番組のある土曜日の夕方、彼はスタジオで僕のことを待ってくれていた。
 ホテルの部屋で何度か耳にしたことのあるラジオの声が、僕を迎え入れた。70歳になっても仲地さんの声には張りがあり、やや早口できびきびと話すその口調は、どこか噺家にも似ていた。これから彼がKSBKの思い出について語るというので、仲地さんの番組を担当する若い男性ディレクターが、興味深そうにテーブルの端に着いていた。
 「いったいどこから話せばいいかなあ」
 自分の青春について語るのだという意気を満面に浮かべながら、彼は個人で収集したKSBK関連の資料を手元に置いた。社が保管しているものよりもずっと量が豊富だった。
 「終戦の年に小学校3年生で、翌年にはもう自分でラジオをつくり始めていたんですよ」と、彼は言った。
 「ラジオを自作するのが4年生のときに学校で流行りましてね、嘉手納にあったスクラップ・ヤード(廃品置き場)に行って、鉱石やら部品に使えそうなものやらを片っ端から拾ってきてラジオをつくるんです。それを学校で自慢しあいましてねえ……それが最初のね、音楽体験。自分のラジオから聞こえてくるのは、それはもう英語ばかりでした。FEN、当時のAFRTSです」
 もちろん英語の内容はわからなかったが、後になって記憶をたどり直してゆくと、そのときに彼が耳にしていたアメリカの音楽は、いわゆる「ポピュラー・ミュージック」と呼ばれるものだった。「ポップス」という言い方は、当時はまだなかった。
 「フランク・シナトラにペリー・コモ、それからダイナ・ショアとかね。“ペストパッキン・ママ”なんかもちょうどその頃ですね。耳だけで覚えて、訳もわからずに口ずさんだものですよ」
 アメリカグチの章で触れた、登川誠仁と照屋林助による「ペストパーキンママ」(ピストル・パッキン、ママ)がまた出てきた、と思った。大人から子供まで、怪しい英語でこの曲を歌うのは、終戦直後の沖縄でやはり大流行していたのだ。
 「すげえ音楽があるなあ、と思いましたよ」
 本当に子供の時分に帰ったかのように、仲地さんは目を輝かせた。
 「それまでは聴いちゃいけないと禁止されていた音楽が一気に開放されたわけですから、飛び上がるくらいに驚きました。日本の歌なんて暗いものばかりだったし、軍歌とか唱歌しか認められていませんでしたから、まるでうなされるように、アメリカの音楽を聴いていました。スクラップ・ヤードには戦車で使うレシーバーもありましてね、それを耳にしたまま布団のなかでラジオを聴いて、朝になって目を覚ますと、かけたままのレシーバーからまだ音楽が聞こえているんです。そんな子供時代です」
 音楽が明るく楽しく思えたのはそのときが初めてだった、と彼は感慨深そうに話した。自分の原点について語るときは誰でもそうだが、仲地さんは自分の原点にアメリカがあることを、いまでも楽しく懐かしく感じているようだった。復帰後のことよりも復帰以前のことが知りたいのです、と僕が彼に伝えると、「そうそう。復帰後なんて日本と一緒で、皆同じだから面白くないよね」と、言った。
 「アメリカのポピュラーに触れて何がいちばん驚いたといって、自然に体が動くことですよ。こんな不思議なことがあるのか、と思いました。日本の歌謡曲よりも、アメリカのポピュラーの方がはるかに身近でしたね」
 仲地さんはその後那覇高校で無線クラブに入り、放送局のエンジニアになる夢をはっきりと持った。子供のときから憧れていたDJに自分が本当になるのだとは、そのときはまだ思いもしなかった。

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