復帰するまえの沖縄には、日本に何ら影響を受けない(というよりはアメリカとじかにつながれた)、独自の音楽チャートがあったのだなという想像は、タイトルから何となくついた。何しろ当時は、アメリカのポップ・カルチャー(音楽や映画や食べ物など)に関しては、東京などよりも沖縄の方がはるかに先を行っていて、50年代から70年代の初めに青春を過ごした沖縄の少年たちには、アメリカ文化の血が流れていると言ってもいいくらいだった。
当時の状況をサイトで伝える人物もいかにも熱っぽい様子で、その文章は単に懐かしいということを超えて「アメリカのラジオ局が自分をつくってくれた」とでも言わんばかりだった。FENを聴きかじって育った僕としても共感するところは大きく(そう、女の子なんかよりもずっと大事だった)、彼の文章には思わず引きこまれた。そして想像してもみなかった意外な事実を、僕はそこで知らされることになった。
復帰後1年の1973年まで、沖縄には民間の英語専門局があったというのだ。米軍が管轄するFEN(復帰以前はAFRTSというコールサインだった)と並んで、そのラジオ局は地元の商店などのCMを収入源としながら、1日に20時間音楽やニュースを流し続けた。経営の母体は現RBC(琉球放送)で、しかし放送のスタッフは大半がアメリカ人であるということだった。
本国のスタイルに倣って、番組の方式はDJひとりが選曲からレコード盤のセッティング、そしてミキシングまでを取り仕切る「ワンマン・コントロール」。軍の連絡事項や宗教的な意向を持たない放送は、若い軍人や軍属から沖縄の少年たちまでの間で、絶大な人気を誇っていた。チャート同様に原盤もアメリカ直送であるために、日本本土より半年も早くヒット曲を届けていたようだ。しかし日本復帰後、英語のみによる民間放送は日本の放送法の禁止事項に抵触するという理由で、郵政省から1年の猶予期間を経て廃止を申し渡された。
何てことをしてくれたのだ、と僕は思った。そのまま存続させていれば他に例を見ないユニークな放送局であったはずなのに、いまとなってはその音も聴けないではないかと、心の底から残念に感じた。しかしサイトで当時の様子を描いているラジオ・マニアは、そんな気持ちくらいはお見通しのようで、次の画面へとクリックしてみると、そこでは復帰直後のコマーシャルを聞けるようになっていた。さっそくストリーミングしてみると弾むようなアメリカ英語が流れ出し、「トヨータ、ホンダー」などというアナウンスに続いて、そのディーラーのある沖縄の地名が聞いて取れた。
以前に録音されたものとはいえ、「アメリカだったときの沖縄」をじかに体験したのは、そのときが初めてだった。「沖縄の音楽少年たちはこういうのを聴いて育ったのか」と、ライバルに対する敗北感にさえ近い気持ちを、僕は抱いた。
彼がそのサイトで何よりも伝えたいことは、トップ30のチャート・マガジンが当時あったという事実だった。その無料の冊子は毎週土曜日になるとRBC社の玄関ホールに積まれ、あっという間になくなるほどの人気だった。1冊たりともバックナンバーを漏らすまいと奮闘していた当時の自分の様子を、彼はサイトにこんな風に書いている。
「ビートルズのデビューから解散までを中学・高校と過ごした僕にとって、KSBKは常に生活とともにあり、特に毎週土曜日に発行されるウィークリー・トップ30は、土曜日の午後の一番の楽しみだった。学校から急いで帰ると真っ先にラジオにかじりついていた。(冊子は)B5判表紙こみで20ページ、今も僕にとっては大切な宝である」
ちなみにそのサイトでは、67年4月29日付のローカル・トップ30が紹介されていた(現在は停止されており、閲覧不可能)。参考までに上位10曲をここに並べてみよう。
1位:For What It's Worth/バッファロー・スプリングフィールド
2位:No Milk Today/ハーマンズ・ハーミッツ
3位:A Little Bit Me, A Little Bit You/ザ・モンキーズ
4位:Sock It to Me-Baby/ミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズ
5位:I Think We're Alone Now/トミー・ジェイムズ&ザ・ションデルズ
6位:Does Your Mother Know/ジョージ・ロイド
7位:The Return of The Red Baron/ザ・ロイヤル・ガーズメン
8位:Don't You Care/ザ・バッキンガムズ
9位:Sit Down, I Think I Love You/ザ・モジョ・メン
10位:Somethin' Stupid/ナンシー・シナトラ&フランク・シナトラ
このような熱意ある文章と記録を伝えている渡口眞常という人物に、ぜひ会ってみたいと僕は思った。マニア同士の会話はまた別として、軍とは関わりを持たないラジオ局が当時の沖縄の少年たちにどのように受け取られていたのか、それが知りたかった。
一方で個人的に資料をあたってみると、そのKSBKは開局当初はトラブルが多く、
従業員であるはずのアメリカ人スタッフたちが経営陣であるRBCの沖縄人を顎で使うなど、戦後の様子をうかがわせるエピソードもあった。しかしその後再建を図って双方は友好関係を築き、廃局になる最後の放送日には沖縄人・アメリカ人のスタッフ全員が「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」を合唱しながら肩を抱き合って泣いた、などという出来事があったことを僕は知った。この最後の曲には、こんなフレーズがあった。
「私たちに明日はない。しかし私たちには昨日がある……」
次回更新予定日 2月22日
