Web草思
58号線の裏へ 駒沢敏器
第35回 沖縄に来て気づいたこと
 ベトナム戦争に反対し、沖縄の地で平和活動をしていたランドール牧師が解任された事件を知ったとき、僕は「位相のねじれ」のようなものを感じた。物資や食糧から、音楽などの文化まで、アメリカは軍を通して自分たちの都合を一方的に沖縄へ押しつけるだけであったのに対して、ランドール牧師はそのようなアメリカの在り方を批判したことで、逆に退去を命じられたからだ。
 そこに基地があるからこそ、宣教師たちは兵士の慰労もかねてアメリカから派遣されてくるのに、彼は基地の存在そのものを頭から否定し続けた。これはアメリカ人牧師たちにしてみれば狂気じみた裏切り行為であっただろうし、宣教師ともあろう者がいったい何をしに沖縄へ来たのかと、その矛盾した行動は理解しがたいものでもあっただろう。彼は宣教師なのに祖国であるアメリカに背を向け、支配下にある沖縄に加担したのだ。
 戦果にしろパイの味にしろ、そしてコンクリート・ブロックの住居やポーク缶など、戦後の沖縄はアメリカ軍によってもたらされたものを流用して、焼け野原から文化を立ち上げていった。耳で覚えた英語をあやしげな言葉に変え、子供たちはラジオから流れるアメリカの音楽を聴いて育った。それらはやがて沖縄独自のものへと変質を遂げながら、現在の沖縄へいたる大衆文化の基盤となっていった。そしていずれにせよ、その流れは常に一方的なものだった。アメリカが沖縄に影響を与えることはあっても、その逆の流れ……つまり沖縄からアメリカに対して何らかの変化をもたらすようなことは、考えられないことだったのだ。
 ところがランドール牧師は沖縄が置かれている現状を目にして、沖縄人と共に生きることを選んだ。退去を命じられても沖縄に留まりつづけ、基地やアメリカという枠からはみ出して現在にいたっている。軍人・軍属は言うに及ばず、教会活動のために派遣された宣教師たちも含めて、彼のようなアメリカ人は沖縄にはかつて存在しなかった。
 そのような人物の目に、基地の存在とこれまでの沖縄の経緯はどのように映っているのか、僕はそれを彼本人から直接に聞きたいと思った。フェンスの外から見たアメリカではなく、その内部にいた彼は、支配者の内情を知ったうえでそれを理由に被支配者のもとへ降りてきたからだ。
 基地ないしはアメリカは、実のところ沖縄をどう見ているのか……沖縄人でも容易には知りえない事実を、僕はまず彼に訊いた。現在、「普天間バプテスト教会」で主牧師を務める73歳の彼は、僕の無遠慮な質問にさらりと答えた。
 「植民地ですよ。いまも昔もアメリカにとって沖縄は植民地です。それ以外に何とも思っていません」
 そして彼は「今日は珍しく静かですね、軍用機が飛ばない」と言った。ふと彼が顔を向けたその200メートル先には、小さな森でさえぎられた普天間飛行場がある。
 「普段であれば、この教会と幼稚園の真上を飛んでいきますよ。どれくらいの音なのか、デモンストレーションしてくれればいいのに……」
 彼はにこやかな笑みを僕に洩らした。それはどこかしら不敵ともいえる確信を宿したもので、彼がいまでもここにいる理由を説明しているように思えた。
 「私は最初、沖縄には来たくなかったですよ」
 礼拝堂のわきにある自室で、ランドール牧師は静かに語り始めた。お茶のペットボトルを差し出してくれ、残ったものはお持ち帰りになるとよろしいでしょう、と言った。
 「どうして、基地だらけの場所へ好んで行きますか? 私は故郷のジョージアで勉強しているときにガンディの思想に触れ、インドに行きたかったです。その後ニューヨークで一緒に住んだ妻もコロンビア大学で人類学を学んでいて、やはりインドへ行きたかった。ところが冷戦のあおりで、アメリカ人にはインドのビザが下りません。だからといって、なぜ地球の裏側へ? 厭でしたよ……しかしまずは神戸へという要請があり、その気になれば沖縄へという選択が与えられました。しかし沖縄に視察に来てみるまでは、本気で考えてはいませんでした」
 1967年に神戸へ派遣された彼は、日本語の勉強をしながらそこで2年間を過ごした。そして最初の1年が終わった68年に沖縄を視察で訪れ、想像もしていなかった事態に触れることになった。
 「アメリカ人の教会と、沖縄人の教会のあいだに、差別的ともいえる上下差がありました。それは来てすぐにわかるものでしたね。お金と、権力と、軍の都合で、すべてのことをアメリカの牧師が決めていました」
 当時の沖縄で事実上の実権を握っていたのは、牧港とコザにあるふたつの大きな教会だった。基地の外にあるために、いずれも沖縄バプテスト連盟に加盟していたのだが、主牧師を務めるのはアメリカから派遣された宣教師で、この2名の思惑のままに連盟の総会は左右されていた。総会を構成する代議員は各教会の会員数に準拠して選出されていたため、大きな教会ほど有利になる仕組みとなっていたのだ。沖縄人による教会はその大半が小規模で、権限を持たされていないも同然だった。
 「何もかもすべてのことが、頭越しでアメリカ人に決められるのです。そして宣教師の多くは、アメリカ南部のサザン・バプテスト連盟から派遣されてきますから、総会で何かが決まるとアメリカの連盟本部からお金が流れてきます。誰がこの権力を、手放したいでしょう?」
 内部の実情を知ったランドール牧師はその一方で、沖縄人の牧師たちとの会話も持った。彼らは何ひとつ自分たちの声が届かない問題を口にし、基地に対しても何ら活動ができない現状を訴えた。その姿はアメリカ人宣教師たちとは逆に、感動を覚えるものだったと彼は言う。
 「立派な人物が多く、小さい場所なのに意識が高いと思いました」
 そのときに出会った代表的な牧師の名を挙げながら、彼らに対する尊敬の念をこめた様子でランドール牧師は語った。
 「人間としてもたいへんに温かく、私をアメリカ人として見るのではなく、ひとりの人間として見てくれました。しかも沖縄の人びとは非暴力主義で、たいへんに心が強かった。これならば共にやれるのではないかと思い、私はガンディの教えをこの地で実践することを考え始めたのです」
 そしてその年の4月4日、沖縄に滞在していた彼の耳にひとつの訃報がもたらされた。敬愛してやまなかったキング牧師が、遊説先のメンフィスで暗殺されたのだった。
 「彼に二度会ったことのある私は、たいへんなショックを受けました。いまでこそ冷静に言えますが、当時は簡単ではなかった。そして私は、そのときに決意しました。『イバラの道があればそちらを選ぶ』……生前の彼は、そう言っていたのです」

草思社