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58号線の裏へ 駒沢敏器
第34回 基地を離れた牧師
 そこに基地があるということだけで、沖縄のクリスチャンは信仰の自由まで、半ばアメリカに隷属を強いられていた。基地や戦争に異議を申し立てようとしても、アメリカ系教会の上層部からその動きを潰され、民間に反米感情がひろがらないように、沖縄の教会は常にアメリカの監視に晒されていた。沖縄人の牧師たちは言いたいことも満足に口にできず、アメリカ人宣教師の顔色をうかがうことを強制されているような状況だった。それは戦後まもなくから、復帰を経てもなお続いた。
 基地の存在によって、沖縄における教会の構図は複雑なものになっていた。ひとつにはまず米人専門の教会があり、信者の大半が軍人で占められるその教会は、基地内もしくは付近に設けられていた。ここへアメリカ本土から宣教師が送りこまれ、民間への布教というよりは兵士たちの信仰心を支えることが主な目的とされた。宗派は「南部バプテスト連盟」および「アメリカン・バプテスト同盟」の2派からなり、前者が主流派として権威を振るった。
 一方では、沖縄にはもともとバプテスト(福音主義)を主流とした活動があった。ところが1955年、沖縄に派遣されたボーリンジャー宣教師は兵士たちへの教会活動のみならず、沖縄の教会までも傘下におさめることを視野に入れ、「沖縄バプテスト連盟」を民間と共に結成した。沖縄のクリスチャンは戦後の米軍占領下で、アメリカ系の教会に吸い上げられることとなったのだ。
 このおかげで潤沢な資金援助をアメリカから受けることになり、多くの教会や伝道所の設置を実現させることにもなるのだが、権力構造の点では下部に甘んじることを余儀なくされた。沖縄は信仰の現場まで、事実上の支配下に置かれたのだった。
 そして復帰を経た1979年9月、ひとつの象徴的な事件が起こった。アメリカから宣教師として派遣された牧師が、アメリカ自らの手によって解任され、さらに退去まで迫られることになったのだ。彼は沖縄の民間にひろがる基地への不満や怒りに耳を傾け、反戦と平和を沖縄人と共に唱える牧師だった。その行為が反米的であるとの警告をアメリカ系教会から何度受けても、彼はそれを無視するどころかさらに挑発的な姿勢に出て、アメリカ人牧師たちによる言動の矛盾ぶりや偽善性を指摘した。そして彼の存在が目に余るようになったある日、アメリカ系教会は彼を沖縄から追放することを決定した。それは宗教的活動というよりも、自分たちの組織と祖国を守ろうとするだけの、理不尽で高圧的な行為だった。
 沖縄に来てから10年になるその牧師ウイリアム・ランドールは、地域社会での信頼が厚く、流暢な日本語を話すこともあって、沖縄の民間人とあまり接点を持とうとしない他の米人牧師と比べても絶大な人気を誇っていた。聖書の言葉を用いながら「平和主義」と「非暴力」を説くのが彼のやり方で、沖縄の民間人をバプテストへと染め上げることに眼目はなかった。自分が尊敬してやまないマハトマ・ガンディーとマーチン・ルーサー・キングの思想を伝えるところに、彼の信義はあったからだ。
 信仰心のあるなしに関わらず、彼の開くオープンハウスには多くの学生が集まった。そして宗教を超えた次元で時の政治問題について話し合い、その議論は昼から始まって徹夜になることも珍しくなかった。学生たちからは当然、基地の問題なども議題として出された。牧師はその問題に対しても、逃げることなくこう答えた。
 「暴力と戦争を支持する言葉など聖書には存在しません」と。
 そのような意味では、彼は沖縄人を洗脳する伝道者ではなく、むしろ沖縄人と同じ側に立って基地を見る人物だった。しかしそれが仇となって、アメリカ系教会の牧師たちとのあいだに軋轢が生じ始めた。彼らにとっては、祖国および軍隊を支持せずに、こともあろうか沖縄に加担する牧師はクリスチャンとはいえず、彼にしてみれば、戦争を支持するクリスチャンなどあり得なかった。
 同じアメリカ人宣教師なのに、そこにひとり祖国の戦争を堂々と批判する者がいて、足並みをまったく揃えようともしない……それでは示しがつかないということで、アメリカン・バプテスト外国伝道部(在沖縄)は、彼を追い出しにかかった。ランドール牧師宛に送られてきた文書には、あまりにも理不尽な内容が理由として挙げられていた。
 「他の宣教師たちとの親密な人間関係の欠如。沖縄のような小さな所にあっては、宣教師どうしが一緒に仕事をし、互いにコミュニケートできるということが、絶対に必要な条件である」
 「あなた個人の米軍に対する不一致も、解任の理由であります。このことに関して私は批判的なのではなく、むしろこのような環境(軋轢)から生ずる緊張が、あなたの仕事と他の人間関係に影響することを同情するのであります」
 また、ランドール牧師と極めて強い対立関係にあった前述のボーリンジャー牧師は、沖縄人牧師が仲介に入った会談のなかで、このように述べている。
 「あなたがた(牧師とその妻)には沖縄を去ってもらいたい。なぜならあなたがたは精神的に異常である。あなたがたが軍やCIAに対して反対するのは、あなたがたの異常性を証拠だてている。関西に転任しなさい。そうしたらあなたがたの病気は治ります。アメリカ南部の宣教師の100パーセント、沖縄人牧師のほとんどが私と同意見です」
 沖縄人牧師のほとんどが同意見ということは、もちろんありえなかった。しかし敵対するボーリンジャー牧師は沖縄バプテスト連盟の牧師たちに対して裏で根回しを企て、異論を封じこめてしまった。アメリカ本国の連盟と沖縄人牧師でつくる連盟のあいだには大きな上下差があり、信仰の場でも沖縄は従属しなければならない立場にあったことを、この事件は逆に明らかにしたのだった。
 そして79年の9月、ウイリアム・ランドール牧師は沖縄の宣教師館から強制退去を命じられた。当時46歳だったランドール牧師には妻と3人の子供がおり、生活は一転して苦しいものとなった。彼はそれまで乗っていたアメリカ車を小さなトヨタの車に乗り換え、食事は彼を支える地元の沖縄人牧師によって賄われた。ティーンネイジャーだった彼の三男はクリスチャン・スクールで迫害を受け、心を閉ざすことも少なくなかった。それでも彼は関西への赴任命令を固辞し、基地のある沖縄で平和活動を続ける道を選んだ。

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