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58号線の裏へ 駒沢敏器
第30回 開けてみたくなるドア
 58号線の周囲には傾斜地がいくつも点在し、住宅地にも農地にも不向きな場所として、雑木や雑草が処理されないままに放置されていた。戦前から使い道のない土地で、したがってそこに新しく基地が建設されることもなかった。
 しかしここにブルドーザーなどの重機を入れて更地とすれば、米軍向けの住宅を建てて高額の家賃収入が見こめるという話を、地主たちは地元の不動産業者から持ちかけられた。それでは身売りと同じだという声は上がらず、不動産業者を仲介とした軍と地主の関係は、きわめて友好的に進んだ。そして1958年、最初の外人住宅が宜野湾ぎのわん市大山地区に登場した。普天間基地の真下にひろがる傾斜地は造成してみると抜群に見晴らしがよく、約4000坪の土地にまずは32棟の住居が並んだ。
 設計にあたっては厳しい基準が義務として設けられてはいたものの、米軍からの直接的な技術指導はなかった。そこで地元の建築士が基地内住宅の図面をもとに設計図を作成し、民間の業者が施工を担当した。いずれも見よう見まねの作業ではあったが、上官クラスの家族でも納得のゆくような空間が、そこには出来上がった。当時の外人住宅のほとんどは主寝室に寝室ふたつを加えた3ベッドルーム構成であり、水回りなどのユーティリティはゆったりと取られていた。
 そのときから今や50年近くを経過している住宅を、僕は見に行ってみることにした。現在では日本国の「思いやり予算」によって基地内に複層式の集合住宅が建ち並び、最も古いこの住居群に外国人の借り手はいない。しかし広く取った庭や自動車が2台停められるカーポートなどは、今でもまだ充分に使い勝手がよく、この手の生活スタイルを好む地元民のあいだでは人気は高い。将校クラスの軍人が住んでいた邸宅を、そのままレストランとして改造した物件例などもある。
 業者のはからいで何軒かをまわってみると、さすがに経年による劣化は隠せなかった。改装の利く室内は手を入れれば見違えるようになるはずだが、外壁はやはり手がかかるからか、黒ずんでしまったシミやペンキの変色などが目についてしまう。もういちど塗装をかければある程度は蘇るのだとは思いつつも、誰もが羨むような住宅が登場したときの輝きまでは、取り戻すことはできないだろう。
 基本的には箱型のつくりなので、部屋の仕切りはそのまま屋根スラブの粱に沿っている。つまり凹凸のあるような壁面はほとんどなく、箱のような空間をいかに効率よく区切っていくかが、居住性を高める際の鍵になる。このとき日本の住居は、似たような小さな部屋をいくつもつくってしまいがちだが、外人住宅では各部屋のサイズに工夫が見られる。小さくてもよい部屋はそのまま、逆に大きく取るべきところはふんだんに大きく取って、視覚上の強弱がつけられている。このようなある種のリズム感は、長く住んでいるあいだに目にやさしく作用してくるはずだ。
 中心となる大きなスペースといえば、まずは主寝室だ。世帯主とその妻が眠る部屋は8畳を超え、横にはほぼ必ずバスルームが設けられている。それに比べて、多くは子供部屋として使われる寝室は6畳ほどであり、広くはない代わりに充分な収納設備が用意されている。生涯にわたって住む家としては限界があるが、長くて数年の赴任期間にはこの機能性で対応できるだろう。
 次に意識して大きく取られている空間が、実はリビングというよりはキッチンとユーティリティ(ランドリールームなど、水回りを共有する部分)だ。主婦の快適性というものに配慮しており、日本のいわゆるダイニング・キッチンのように、料理のためのスペースを狭めてしまうことはしていない。むしろダイニングはリビングとひとつづきの空間として別個に発想されており、ここが家族の集う場所として機能する。
 今となっては日本の家屋との差はさほどないとはいえ、レイアウトの巧みさと居住性にかけては、やはり往年のアメリカのよさを残していると僕は個人的に思った。廊下があるとその先に行ってみたくなるし、そこにドアがあると「何だろう?」と開けてみたくなる。つまり人間が行動するときの好奇心、言い換えれば使い勝手のよさにつながる動きの連続性が、ここには生み出されている。飽きなくて使いやすい。椅子にすわったり、そこから立ってどこかへ歩いたり……家のなかにいて日々繰り返される何ということのない行動が、やがて辛く窮屈なものになってくるという圧迫感が、外人住宅のなかにはほとんどない。これは戦後のアメリカが達した、ひとつの普遍的な善であると言っていいだろう。
 こんな居住空間を50年もまえに目の当たりにした沖縄の人たちは、本能的に親しみやすさを感じたはずだ。支配者の威圧感というよりも、豊かさのなかにある温かさであるとか、最新式の電気製品に対する共感であるとか、日本とはまるで違った尺度や価値観をもった人たちの物腰に、ある種の感銘を受けたのではないかと僕は思う。憎むなどというのはまったくの方向違いで、かぎりなく好奇心を掻き立てられたはずだ。そしてそのときの心持ちは、アメリカ人に接する際の姿勢の原点となったのではないか。
 それにしてもどうやって、と僕は思った。いくら基地内住宅の図面を手本にしているとはいえ、なぜ沖縄の民間人(建築士も含む)がここまでの居住性を、当時において再現できたのだろう。型さえ真似ればあとはいくらでも同じ質の空間ができるほど、アメリカの住宅の設計レベルは高かったのか。それとも図面のなかに快適性を見て取る能力の持ち主が、そのときいたというのだろうか。
58_30.jpg この大山地区の外人住宅を開発し、その後も先駆者として数多くの物件を手がけてきた「米琉住宅」を、つぎに僕は訪れてみることにした。改装中の物件を見せてくれた米琉住宅の関係者は、「創設者は亡くなっていますが、いまは息子さん夫婦が後を継がれています」と語った。

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