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58号線の裏へ 駒沢敏器
第29回 憧れの住宅がフェンスを越えた日
 とある人物の紹介で、沖縄の米軍基地内に入った。那覇市内で不動産業を営む彼は、基地へ自由に出入りすることのできる通行許可証を持っており、彼が同行しさえすればゲートも素通り、ほとんど何の制限を受けなくても済む。
 ゲートで停まった車から許可証を差し出すと、係官はそれを一瞥しただけで僕らをなかへ導き入れた。広大な芝のゴルフ場にも見える敷地には巨大な滑走路があり、それを周回する道路がゆったりと付けられただけの基地は、ひとことで言えばアメリカの片田舎ですらなかった。わざわざ内部に入らなくとも容易に想像のつくことではあるが、広大で優雅に見えるフェンスの向こう側は、やはり変化と多様性に乏しい退屈なだけの場所だった。
 巨大な倉庫のような商業施設が一棟、なかにはスーパーと並んで理髪店や本屋、衣服の店などが収められていた。食事のできるコーナーは驚くほど規模が小さく、ピザやハンバーガーなど、ファストフードのようなものしか選ぶことができない有り様だった。その施設の隣には映画館がひとつと、全米規模でチェーン展開されている簡素なレストランが一軒あるのみ。上官以上になると専用のレストランも使用することができるが、基本的なメニューはバイキング(ビュッフェ・スタイル)であると、ここでは書いておこう。
 このように、基地では「街」とすら呼べないアメリカ本土がごく部分的に再現されているだけで、そのバー施設でカラオケに興じる若い兵士たちの姿を見ていると、同情を禁じえなくなってきた。カウンターでお酒を提供しているのは、この道30年以上の地元女性で、マイクを手に騒いでいる兵士に英語で小言を言いながら、「あんなことくらいしか、憂さ晴らしをする方法がないのよねえ」と僕に囁いた。
 「ここにいてもすることなんかないし、外へ出ていって遊ぶにもお金がかかるし。基地といえば昔は憧れの場所でもあったのに、いつの間にか逆になっちゃったわね」
 「毎日ここにいろと言われたら、それは確かに誰でもうんざりします」
 ワイルド・ターキーを注文した僕は、きびきびとした感じの彼女にそう言った。そして差し出されたグラスを口にすると、水で割っているのにも関わらず、その味は濃く強く、はっきりと美味しかった。少し驚いたような顔をしたのか、彼女はカウンター越しに「味がちょっと違うでしょ」と僕に声をかけた。
 「同じ銘柄でも、軍隊向けのものはつくりが違って質がいいのよ。ま、あいつらにとっては、そんな違いもわからないだろうけど」
 調子はずれの歌声を耳にしながら、僕は施設の外へ出て煙草を吸った。さすがはアメリカ、軍隊といえども施設内はバーを含めてすべて禁煙になっていた。
 ふたつしかない灰皿を、58_29.jpg僕は兵士たちと交互に使った。夜は静かで長く、バーのビリヤードをやり終えた彼らは、これから特にすることもなさそうだった。
 敷地は広大で、はるか先に見えるフェンスまではほとんど光がない。そしてオレンジ色に照らし出された鉄条網の向こうには、沖縄の夜の歓楽街が色とりどりに見えている。妖しくゆれるネオンの文字、ライトに照らされた日本語の看板……。それは基地から見ると強烈に羨ましく、とても温かそうだった。どちらに住むかを選べと言われたなら、躊躇なくフェンスの外であると、自分は答えると思った。
 朝鮮戦争が勃発するまでの在沖米軍基地は、あくまでも暫定的なものだったといわれている。1950年以前の基地には、それを証明するかのように、コンセット住宅と呼ばれるものしか住居は建てられていなかった。波型の鋼鉄製トタンを用いたカマボコ型の住宅で、それは災害時の避難所のようなものでしかなかった。
 しかし49年になると米国の朝鮮戦争への突入がほぼ避けられない情勢となり、基地の軍事化は一気に進んだ。そのための予算が米国議会で計上され、5000万ドルもの巨額が投じられることが決定した。これを機に基地建設のための国際入札がおこなわれ、滑走路や軍事施設整備のほかに、住居の建設が急がれることになった。
 53年には当時の副大統領リチャード・ニクソンが在沖米軍基地の恒久化を宣言し、基地内の住宅建築数は年間400軒以上にものぼった。しかしそれだけでは、大挙して沖縄へ訪れる軍人・軍属とその家族たちを賄いきれず、基地の外での住居建築を急ぐ必要性に迫られた。そこで軍は沖縄の土地所有者や有力者たちに働きかけ、基地内と同様のつくりによる住宅の建築を要請することとなった。このときに初めて、沖縄の民間業者の手による「外人住宅」が誕生した。
 素材の選定から居住空間の広さ、間取りやキッチンなどの付帯設備にいたるまで、米軍による住宅公社はこと細かい基準を業者たちに義務づけた。建材にはシロアリと台風対策のためにスラブとコンクリートブロックが用いられ、屋根は傾斜のないフラットルーフが採用された。いわゆる平屋建ての箱型住居で、平均的なものでも35坪程度の2ベッドルームないしは3ベッドルームのレイアウトだった。
 エアコンを完備した室内には、早くもダブルシンクのシステムキッチンが用意されていた。主婦の作業動線を機能的にするために、キッチンの横にはランドリールームが備えられ、ここはのちの日にハウスメイドの小部屋としても利用されるようになった。当時のアメリカの住居をやや簡便化したスタイルは、沖縄はもとより日本本土でも見ることのできない、最新の近代的住居そのものだった。
 ただ指をくわえて見ていただけの憧れの住宅がフェンスを越えて、ついに自分たちの住む場所にもやって来ることになった。地元の女性たちはそこでメイドとして雇われることを夢見、「ジミー」などの軍人・軍属を相手としたアメリカ型の商店が、58号線の沿線に並び始めた。米軍の要請による沖縄産の近代住居「外人住宅」は、沖縄とアメリカの文化が入り混じる際の、最前線としての役割を演じ始めた。

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