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58号線の裏へ 駒沢敏器
第28回 たかがポーク、されどポーク
 大学を卒業しても上地さんは沖縄には戻らず、逆に沖縄からやって来る同胞たちの支援に、その後も専心することになった。進学の道を選んだ理由は「沖縄人とは何か」という問いを自分なりに突きつめるためだったが、遠地から沖縄を見ていた彼の視線は、「東京のなかの沖縄人」へと注がれ始めた。問いに対する答えを仮に手に入れたところで、目のまえにある差別や誤解を解消しないことには、何の役にも立たないのではないか。このとき上地さんのなかで芽生えていたものは、差別に対する怒りや敵意ではなく、自分たちに対する誇りだったと僕は思う。
 生まれたときから周りがアメリカ人だらけだったので、自分とは何者かを自然と考えるようになった、と彼は言う。確かにそれは大きな要因となりえるが、アメリカとの関係が少しでも公平であったなら、はたしてそこまでの疑問が持ち上がっただろうか。関係が一方的なものであり、島の半分が軍の施設に占拠されているという異常な状況にあったからこそ、彼は自分にとっての沖縄を知る必要にかられたはずだ。それをすることなしには、上地さんは自尊心も誇りも持つことができなかった。そしてそれを探し出すために、彼は故郷から距離を置いて大和へやって来た。
 しかしそこで待ち構えていたものは想像以上の差別と無関心であり、沖縄人との関係を多少なりともデリケートに考えざるを得ないアメリカに比べると、直接的な関係を持たないできた大和人はまったく冷淡で横暴だった。
 沖縄で抱いていた上地さんの疑問は、日本を相手にさらに大きく膨らんだ。島に帰ってしまうことよりも東京に居続けることの方が、このとき彼のなかで大きな意味を持った。無知そのものからもたらされる偏見を何とかして覆せないか……それには自分たちの文化を率先して実践し、相手に知らしめるしか方法はなかった。
 「県人の多くは自信を失っていました」
 職場や居住地域でのトラブルに悩み、解決を願い出るために上地さんのもとを訪れる同胞たちのなかには、沖縄出身であることを隠した方がいいのではないかとさえ、思い始める者もいた。
 「劣等意識に苛まれて、自分たちの文化そのものが低いと思ってしまうのです。大和に近づくためには踊りなんか必要ないし、三線を弾くのは恥ずかしい。言葉を直して同化したい……。しかしもともとが違う文化を持つ民族なのですから、ぼくたちがまずそれを自覚して、日本の人に知ってもらうことが大切なんです。出自を否定して隠していたのでは、却って解決にならない。ぼくたちの集まりはその後しだいに県人会となり、踊りや三線を積極的にやるようにしました。エイサーの練習もするし、空手の稽古もする。そんなふうにして、自覚と誇りを少しずつ回復していったんです」
 1990年になると、上地さんはひとつの店を持った。場所は墨田区押上で、店名はあえて「沖縄屋」とした。彼はこの店にゴーヤーやナーベーラーなど沖縄の特産品を置き、棚にはもちろんポークの缶詰もあった。県人たちが集まれるように、という集会場の意味合いも強かったが、商品はあくまでも東京に住む人に向けられていた。食品や音楽を通して沖縄を知ってもらうことが、何よりも大きな目的だった。
 東京で沖縄の商品を専門的に扱う店舗は、この「沖縄屋」が初めてだった。上地さんを店長に招いた「有楽町わした」がオープンするのはこの4年後のことであり、ごくわずかな店舗数の沖縄料理店を除いては、東京で沖縄の文化情報を得る拠点は皆無に等しかった。いまのブームを見ると隔世の感があるが、つい十数年まえまで(つまりはバブル真っ盛りの頃だ)、日本人の多くは国内にある沖縄のことをほとんど何も知らずに見過ごしてきたことになる。
 「沖縄の文化を、東京から発信しようと思ったんです。小さな店でしたが、あえて上野のそばに構えたのも、沖縄出身ではない人に沖縄の品物を買ってほしかったからです。ポークやブルーシールなどアメリカ発のものも含めて、あるがままの沖縄を知らせたかった」
 しかし開店当初は東京の客は少なく、その代わりに近隣に住むフィリピン人や中国人、韓国人などが多く訪れた。日本食ではなじみのない食材も、彼らにとっては懐かしく思うほど普通のものであり、ポークやへちまが売れてゆくのを目の当たりにした上地さんは、「日本では異質だと蔑まれていたものが、その先のアジアに目を向けるとむしろ普通だったのだ」と知って、自分でも驚いたという。
 その後、沖縄へ旅行に行った経験者たちが口コミで彼の店を訪れるようになり、そのとき県人会の事務局長を務めていた上地さんは、故郷の文化に確かな手応えと誇りを感じ始めていた。一方で自分たちの無知蒙昧ぶりに気づき始めた一部の日本人たちは、その罪悪感を贖うかのように沖縄の文化を吸収しようと意識を高めた。
 両者のあいだに、ようやく通路のようなものが開かれた。そして沖縄を知りたいと思い始めた日本人たちに対して、上地さんたちには伝えたいものがたくさんあった。「わした」のオープンをもって両者をつなぐ通路はより大きく拡充され、有楽町の広大な店舗フロアを熱心な沖縄ファンが埋め尽くすようになった矢先に、「わしたでは県産品ではないポークを売っている」との密告がもたらされた。
 経営責任者として公的機関に適切な対応をした上地さんは、いまではそのときの自分の感情を口にはしない。しかしあくまでも推測含みの代弁を僕がするなら、それは「沖縄が商品として売れることがわかった途端に沖縄の純血性にこだわるのは、戦後の沖縄の在り方そのものを否定することにならないか」ということになるだろう。
 彼が品物を通して伝えようとしたものは、言うまでもなくその背後にある文化だった。商品はそれの象徴や窓口であって、彼が売ろうとしていたものはモノだけではなかった。そこには沖縄への理解を求める熱意があり、決して沖縄を商品化したのではなかった。しかし公的機関が指摘してきたことは、「沖縄を商品化するうえでポーク缶などは邪魔な夾雑物だ」という、出自を否定するような逆の発想に基づいていた。ひとことで言うなら公的機関は、いまのうちに沖縄そのものをいいイメージで売ってしまおうとしていることにもなる。
 「沖縄に戻って、物産公社での勤めを終えて数年。それなのにいまだにぼくのところには、日本の各地方自治体や第3セクターから、講演の依頼が引きも切らずにあるんです」
 自らの業績を苦く笑い飛ばすかのように、覚めた調子で上地さんは語った。
 「そのほとんどが村おこしの相談ですよ。どうしたら地域を売れるか。出雲市からでさえ、そんな話がありました。沖縄ができたことが、創世神話の生まれた土地にできないことなどあるのでしょうか。ぼくにはよくわかりませんが」
 「わした」を成功させ、3年の契約期間を勤め上げたら、上地さんには沖縄に戻ってしてみたいことがあった。実際には公社に残るよう懇請されたために実現には到っていないのだが、彼のなかにはいまでもその夢が息づいている。
 それは50年代から60年代頃の、復帰まえの「まちやーぐゎ」を再現することだ。小さな店構えに棚がいくつか。そこにはガムやコーラが置いてあり、もちろんSPAMの缶詰も誇らしげに並んでいる。こんな沖縄も確かに原点としてあった、という痕跡を、彼は博物館さながらに小さな店としてひそかに残したかった。そこでは子供が買い物をし、近所の老人たちのゆんたく(茶飲み話)の場ともなっている。
 「もちろんぼく自身は、アメリカがいまでも沖縄を支配していることは肯定していません。むしろ否定しなければならないし、それでもまだ基地の受け入れを容認する沖縄には、批判的にならざるをえない」
 戻ってきた沖縄の居心地が実はよくない、と苦笑いをしながら、上地さんは言った。
 「しかし沖縄がアメリカと共にあったことは事実で、それは分けられない。ぼくの親戚にもハーフやクォーターがいて、彼らと英語で話すこともある。混ざったまま現実は動いている。それを分けようとすると、おかしくなります」
 いまのところ、沖縄のスーパーや雑貨店からポーク缶が消えていきそうな気配は、まったくと言っていいほどない。公的機関が示した反応は役人に特有の乱心として、笑殺することもできるだろう。たかがポーク、されどポーク。
 アメリカ兵士の戦争食だったポークは、焦土と化した占領の地の人びとを支援する代用食として配給され、やがては沖縄を代表する食材のひとつとなった。日本では輸入品として高級スーパーで大きな顔をしているポークも、沖縄では僻地の共同売店の棚で、そこに昔からいるお婆さんのように慎ましやかな顔をしている。

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