Web草思
58号線の裏へ 駒沢敏器
第27回 許可されない者たち
 解放された民間人捕虜たちが、いつからポーク缶を日常食へとアレンジして取り入れたか、それはいまとなってはわからない。食うや食わずの混乱の時期があり、そのときいつもそこには見慣れたSPAMの缶詰があった、ということだ。それさえあれば食が進み、おかずの乏しい日でもごはんが何杯でも食べられた。アメリカで戦争用に開発された缶詰は、まさに戦後沖縄の生活を「支援」していた。
 1959年7月にはホーメル社が現地法人化され、「沖縄ホーメル」はアメリカ産の畜肉を素材に沖縄本島での加工製造を開始した。これを機にポーク缶は闇市場で取り引きされる商品ではなくなり、各家庭で食されていた様ざまなポーク料理はより一般的な日常食として、町の食堂などにひろく定着していった。
 ちゃんぷるー各種、味噌汁、へちまや豆腐を味噌で煮込んだ「なーべーらーンブシー」等々。一部の上層階級を除いては「そば屋」以外に外食の習慣を持たなかった沖縄に、主婦の料理が瞬く間にひろがった。そしてこれらの料理には、必ずといっていいほどポークが入っていた。それはまさに「戦後文化」と呼んでも差し支えのないくらいに、草の根から新しく芽生えたものだった。
 那覇市の中心地にある泉崎のバス・ターミナルや、旭橋を奥に入った那覇港近くには、当時の面影を残す食堂が現在でもいくつか点在している。決して美味とは言いがたい「ごはんを掻きこむ」だけの料理だが、そこでは戦後沖縄を象徴する食文化を体験することができる。ここから始まっていまにいたるのだな、という時間の厚みが、やたらと量が多く驚くほど安い定食のなかに閉じこめられている。たまにぼくも泉崎の食堂に行きたくなるんですよ、と上地さんは言う。
 「バスやタクシーの運転手さんたちに混ざって、あの変わらない味を食べたくなるんです。忘れられない原点ですから」
 単に昔を懐かしむのではなく、自分の足元を確認できるものを残しておきたいという思いを、彼はそう語った。実のところ上地さんには、23年間の長きにわたって故郷の沖縄へ帰らなかった経歴があり、日々めまぐるしく変わってゆく沖縄にいなかった空白が、彼のなかではいまだに埋められないままにある。昔はあったのに消えていってしまったもの、沖縄人が自らの手で捨ててしまったものなど、半ば異邦人のような目で上地さんには沖縄が二重映しに見えている。
 「沖縄とは何かを知るために、ぼくは東京へ出ていきました。そして大和では同胞がひどい仕打ちに会っていることを目の当たりにし、ぼくも似たような屈辱的な体験をしました。そのときに思ったんです。同胞たちを支援しながら、その一方で沖縄の文化を東京の人に伝えられないか。沖縄も日本なんだということを、どうやって理解してもらうか。いまでこそ沖縄ブームも定着していますが、沖縄出身であるというだけで部屋も借りられない時期があったんです」
 沖縄が日本に復帰した翌年、1973年に上地さんは法政大学へ進学した。理由は「まわりがアメリカ人だらけの場所で育ったので、沖縄とは何かを知りたかった」ためだ。それにはアメリカへ行くという手もあったが、それまでの支配者がアメリカから日本へ移ったこともあり、沖縄を客観的に見る三点観測の一点として、彼は東京を選んだ。当時はハワイ大学と法政大学にのみ、沖縄文化研究所があった。
 復帰を機に、沖縄では本土への集団就職ブームが起こった。生産活動の場が限られている沖縄では仕事がなく、土地の多くを米軍基地に取られてもいるため、パスポートなしで本土へ行けるようになったことは、当初は希望の光明と思われていた。
 しかしそこで待っていた現実は、アメリカ兵よりもさらに偏見に満ちた、ゆえなき差別だった。就職口は思っていた以上に少なく、仮にあったとしてもほぼ下層に近い労働ばかりだった。言葉や文化が異なるために不要な誤解を受けることも多く、職場での喧嘩やトラブルが絶えなかった。雇用者に非があったとしても次の就職がないので逆らうこともままならず、沖縄出身の労働者は口をつぐんで耐えていくしかなかった。自らの学力で進学をはたし、高等教育の現場に籍を置いた上地さんでさえ、差別を避けることはできなかった。
 「大学の紹介で不動産屋へ行き、空いている下宿を斡旋してもらったのです」
 当時の様子を語る上地さんの目には、もはや怒りすらなかった。本当に差別を受けた者は、そのような目で起こったことを冷静に語るものだ。
 「あとは契約書に判子を押すだけとなったときでした。不動産屋に出身地を訊かれたのです」
 何もかもが順調に進んだ不動産屋は、すっきりと満足したような顔をしていた。明日にでも判を持ってきてもらえばと彼は言い、そういえば珍しい苗字ですね、と何の疑いも他意もない調子で上地さんにごく素朴な疑問を向けた。しかし差別というものは、悪意という自覚のないまま、単に「珍しい」ということだけで始まってしまうものだ。
 出身地を聞かされた不動産屋の顔がにわかに曇ったことを、上地さんは見逃さなかった。しかし東京の名のある大学から正規で紹介を受けているのだからと思い直し、翌日に不動産屋へ電話をした。すると電話の向こうの声は、こともなげに「あそこは埋まってしまった」と告げた。他にも見せてもらった物件を上地さんが口にすると、あそこもここもすべて借り手がついてしまった、という言葉が返ってきた。親戚の子供が急に使うことになったから、などと、もはや意味の通らないことまで理由にされた。
 「復帰したばかりの70年代はもちろん、80年代になっても、このような問題は多発していました。なかには自暴自棄になる人もいるし、かといって沖縄へ戻ったところで職はない。これは自分たちの手で支えあいながら相談のできる環境をつくらなければ、ということになり、県人会の原型が自然とできていったのです」
 個人的な記憶のなかで、61年に東京で生まれた僕には、沖縄の人への差別感情は最初からいっさいない。それは単に、まわりに沖縄出身者がいなかったから免れていただけなのかもしれないし、沖縄に対する無知や無関心ゆえかもしれない。復帰を知ったときに僕はまだ小学生で、文化的な憧れの視線はアメリカの音楽や映画に向いていた。沖縄はその後も視野にはなかった。
 しかし音楽を通して、その視野のなかへ沖縄が入ってきたことは覚えている。70年代の半ば頃、「紫」「コンディション・グリーン」「メデューサ」といった沖縄のロックを代表するバンドが、本土にも大きく紹介された。ベトナム戦線へ送られる兵士たちを相手にするそのサウンドは、アメリカの物まねでしかない本土のロックに比べて、生々しくタフだった。東京のロック好きな高校生に対して、これは本物だと咄嗟に感知させるのに、その音は充分すぎるものだった。
 ちょうどその頃、自分の通う高校へ教職の研修生として、沖縄出身の男性がやって来た。沖縄人を間近に見るのは初めてのことで、色の黒さと体毛の多さに僕は驚いた。担任教師の紹介を受けて教壇に立った彼は、これからアンケートをしたいと思いますと言った。紙を配りますので、沖縄について知っていることなら、何でも書いてください。
 なぜそんなことを要求されるのか、当時の僕にはわからなかった。そして能天気な頭のまま、沖縄のロックにいかに痺れているかということを、上記したようなバンド名をできるだけ書き連ねて提出した。もちろん沖縄への理解などなく、自分の好きなものをひけらかすだけの幼稚な行為でしかなかった。
 僕は翌日、彼から職員室へ呼び出された。なぜこんなにコザのことを知っているんだい、といったような質問を受けたと思うのだが、内容の詳細はまったく覚えていない。ただ今でも鮮明に脳裏に焼きついているのは、必死なまでの彼の形相だった。
58_27.jpg 彼は沖縄のことを必死で喋り、東京にいる人たち特に若い人たちに理解してほしいんだ、と言った。しかし彼が口にする内容のほとんどが、僕には理解できなかった。この人はなぜこんなに真剣なんだろう、どうしてこんなに悲痛に見えるのだろうと、僕は彼の質問にほとんど答えられないまま、ただずっと彼の形相を見つめていた。

草思社