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58号線の裏へ 駒沢敏器
第26回 懐かしいアメリカ
 上地哲さんは現在51歳、「デジタルあじまぁ」という会社の代表取締役を務めている。この会社はインターネット上で沖縄の物産品を販売しており、そこでの店名は「おきなわいち」という。ポーク缶詰はもちろんのこと、その他加工食品や工芸品、沖縄音楽のCDや書籍まで実に1000種類以上の品目が取り揃えられ、単にネットショップというよりは「品物を通して沖縄の文化を伝える」という役割さえ果たしている。
 SPAMに関する彼の想いはそのホームページの日記に掲載されていたもので(現在は休止中)、東京でポーク缶詰を目にしたときの照れ臭い思い出を綴った文章は後半部分では一転、怒りにも似た熱意のこもったものになっている。彼が初代店長を務めていた「銀座わしたショップ」に対して、とある公的機関が「SPAMとチューリップ(デンマーク製のポークランチョンミート)を売ってはならない」と、発売禁止を勧告してきたのだ。
 ちなみに「銀座わしたショップ」は1994年に沖縄物産公社が有楽町に出店した店舗で、商品を県産品に特化した試みは沖縄では初めてのことだった。オープンの1カ月まえになって急に経営を任された上地さんは28日間で品物と人材を揃え、当初はリストになかったポーク缶詰をそこに加えた。子供の頃から慣れ親しみ、親が弁当に入れてくれたポーク缶詰こそ沖縄、と信じていたからだ。しかし県の行政担当者は自分の出自を否定するかのように、ポーク缶詰の発売停止を求めた。そのときの様子を、彼は「おきなわいち」の日記にこのように書いている。
 「東京の銀座わしたショップで店長をしていた頃、スパムとチューリップのポークを販売していました。今まで書いてきたように沖縄を象徴する戦後の食事情から、ゴーヤーチャンプルーやフーチャンプルーなどに合う食材として、また、沖縄に観光で行ったことのあるお客さんからの要望もあり、沖縄ホーメルと富村商事(チューリップの輸入代理店)に出品してもらっていたのです。当然お客さんからは喜ばれ、売上も順調でした。ところがそのことが、ある公的な筋からきついお叱りを受けることになったのです。『県産品を売るべきわしたショップが輸入品を売るとはけしからん!』と、いつの間にやら大騒ぎ。とある公的機関の東京事務所の方がこっそりポークを隠し撮りして、県や公的筋に秘密の報告書を出していたのです。そこで私は説明を求められるはめになりました。(中略)多くのみなさんの支持はいただいたのですが、残念ながらクレームを言ってきた当の機関のご理解はいただけませんでした。沖縄で製造されたもの以外は売ってはいけないというのです。しかし私は自分の信念で、ポークを売り続けたのは言うまでもありません」
 上地さん本人を沖縄本島のうるま市に訪ねた。僕のまえで、彼は自分の書いた日記に改めて目を通して笑った。「輸入品だから沖縄のものではないというのは、いかにも役人らしい発想ですね」と、僕は彼に言葉を向けた。
58_26.jpg 「ポークなしの沖縄ショップなんて、よそ行きの沖縄というよりもはや偽りですよ」
 「戦後の沖縄を否定しているのと同じですからね」と、上地さんは答えた。物腰のやわらかい人好きのする人物だが、眼光は鋭く、強い信念と決意を奥底に抱えているように見えた。
 「どうしたところで、僕らはこれで育ったんです。いまでも大好きですよ。ポークがあれば、いくらでもご飯が食べられます。懐かしいものでもあり、いまも生活の中心にある。僕らの生活は、アメリカ人の生活と共にあるところから、始まったんです」
 戦後から9年目、1954年に上地さんは読谷村で生まれた。当時の読谷村は面積の9割がアメリカの軍用地で、どこを見てもアメリカ人だらけだった。大人の男性はほぼ全員が軍作業に従事し、お姉さんたちはハウスメイドをしていた。基地とのかかわりなしでは生きていくことができず、中学しか出ていないはずの人も、当時の上地さんから見ると英語がぺらぺらのように思えた。
 「おそらくブロークンのアメリカグチだったのでしょうが、おじいさんやおばあさんまで、アメリカ兵と立ち話をしていましたよ。まるでアメリカに囲まれて生活していたようなものですね」
 巷にはアメリカ製品があふれ、まちやーぐゎの棚にもアメリカのウイスキーやビール、そしてポーク缶詰が並んでいた。どれもみな闇ルートで入ってきているのだが、警察はそれを摘発することができなかった。「軍作業員がアメリカ人にゆずってもらい、それを店に売ったのだ」と言えば、それ以上検証することができなかったからだ。
 「コーラにしてもハンバーガーにしても、そういうものが店の棚にある光景は、僕らからすると懐かしい」と、上地さんは言う。
 「というのも、日本のものは逆にいっさいなかったから。アメリカが統治しているので、日本の製品が入ってくる余地がない。本土から送らせるか、地元の沖縄でライセンス生産させるか、それしかないんです。オリオン・ビールもそうやって始まったものですし、沖縄ホーメルも、安いアメリカ産の豚肉で現地生産していたんですよ。僕らはスパムを食べて生活するしかなかったし、それは生きていくための新しい食文化の形成だったんです」
 缶詰の食品は単に簡便であるとか、見た目も色がきれいで高級感があるとか、人気の理由はそれだけではなかった。アメリカのもたらした缶詰は、まさに沖縄人の戦後の生を支えた象徴とも言えた。
 1945年4月1日、米軍は沖縄本島の中部西海岸への上陸作戦をついに開始した。その最前線に位置していたのが読谷村であり、明日とも知れない上陸をまえに、村では意見がふたつに分かれていた。日本軍が強要するように集団自決をはかるべきか、それとも投降して捕虜となり、少しでも生き延びるべきか。
 日本軍の言い分は「敵は鬼畜であるから、男子はみな殺害され、女子は強姦を受ける」というものだった。そのような生き恥をさらすのなら、というのが自決を迫る理由で、民間人は手榴弾を手渡された。あるいはカミソリや鎌などで、互いに刺しあう者も少なくなかった。
 一方では、読谷村には戦前からの移民体験者もいた。彼らはフィリピンやハワイでアメリカ文化ないしは軍と接触した過去を持っており、「相手は鬼畜ではないから、投降しても殺されることはない」と、犠牲者をひとりでも多く減らすべく村人を説得してまわった。鬼畜はむしろ日本兵であり、共に中国へ出兵した沖縄人兵士が目にした行為を、アメリカ兵がすることはない、と。
 上地さんの母方の祖母もフィリピンに移民しており、母親は現地で生まれ育ったため、他の移民体験者と共に、自決を思いとどまるように説得してまわった。そしてみなで収容所へ行くように促し、そこで支給された缶詰を、自分たちで食べてみせて毒ではないことを証明した。最初は缶詰やチョコレートに手を出さなかった捕虜たちは、やがて貪るようにアメリカのものを食べ始めた。

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