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58号線の裏へ 駒沢敏器
第24回 空き缶の奏でる音
 映画「ナビィの恋」は沖縄本島の離島、粟国あぐに島を舞台とした、老婆のラブストーリーとして知られている。一見したところ、平良とみの演じるナビィは平和で静かな余生を送っており、庭の草花に水をやるような毎日だ。島には観光客が訪れることもあまりなく、事件らしい事件は何ひとつ起きない。
 ある日そこへ、白いスーツに身を包んだ伊達男がやって来る。60年以上もまえに、若きナビィと夫婦の契りを交わした、サンラーという男だ。ふたりはユタ(民間の女性霊媒師)のご託宣によって無理やりに引き裂かれたままとなっており、ナビィも彼を忘れることはひとときもなかった。そしていまや移民として成功したサンラーは、ナビィをブラジルに連れ帰ろうと島へ戻ってきた。
 しかし現在のナビィには、夫の恵達けいたつがいる。彼は小さなときから年上のナビィを恋慕しており、サンラーが島を追われたのをいいことに、彼女の家東金城あがりかなぐすく家)にまんまと入り婿をしてしまったのだ。そのことに居心地の悪さを拭いきれずにいた恵達は、サンラーが島に戻ってきたことを知って気が気ではなくなる。表面では飄々としているが、女性を奪い取った苦々しさと悔恨が彼の心に持ち上がり、「元に戻した方がいいのではないか」と、諦めにも似た覚悟をしはじめる。
 この罪悪感に苛まれる恵達を演じる、登川誠仁の演技が素晴らしくいい。「アメリカグチ」の回で触れたように、若いときにハウスボーイを体験した彼は、この映画でも「ランチはトエルブフォーリーに持ってきなさい」などと、得意のアメリカグチを披露している。手にはいつも三線を持ち、牧場へ向かう軽トラックに乗りこむときにふと奏でる曲は、アメリカの国歌「星条旗」だ。
 おそらくは軍作業の体験が、恵達にはあるのだろう。そのときに身に着けた英語をいまだに、しかもさも気取ってなどいないかのように使うところに、彼の背負った哀しみがにじみ出ている。沖縄は現在もアメリカに占拠されているというのに、自分は憧れの英語を使って気取ってみたくなるという矛盾とある種の軽薄さ。そして、ふと爪弾いてしまう曲が民謡ではなく、アメリカの国歌であるという足元の不確かさと皮肉。
 あるいはそんな矛盾を背負っているからだろうか、彼は自分のしてきたことにアメリカを重ね合わせ、強く疑念を持ち始める。「自分がナビィを横取りしたままでいることと、アメリカが沖縄に対してしてきたことは同じではないか」と。登川演じるところの恵達はもちろん、そのように明確で政治的な台詞はいっさい口にしない。しかしあえて彼にアメリカグチを使わせている演出には、土足で踏みこまれたままの沖縄人の心情が透けて見えるようだ。
 奪ったものは元に戻さなければならないと覚悟を決めながら、それでも何ごともなかったかのように、恵達はいつもの通りアメリカの国歌を飄々と奏でる。このときの彼の姿は痛々しさを通り越して、沖縄の抱えるどうにもならない寂しさを、観る者に訴えかけてくる。被害者である自分たちが加害者でもあったと気づいてしまった痛みは、単なる加害者のそれよりも何倍も大きい、ということだ。
 しかしその痛みは決して広く共有できる質のものではなく、いちど被害を受けた者でなければ簡単にはわからない。この寂寥感を自責の念と重ねて表現する登川に、沖縄の抱える孤独が現れている。星条旗の国はいつまでも何食わぬままここにいて、日本もまたそのアメリカに同意して沖縄を差し出す。そして沖縄だけが傷の痛みを二重三重にかみしめ、取り残されたまま複雑な想いに沈んでゆくのだ。登川が奏でるアメリカ国歌の妙に乾いた音色は、親を失った子の叫びのようでもある。
 その星条旗の国に与えられたレーション(野戦食)の缶詰で、戦後まもない沖縄の人たちは簡易な三線をつくりだした。昔の文献によるとカンカラーサンシンという表記が一般的だが、現在では「カンカラ三線」という呼称で通っている。主にコンビーフ・ハッシュ(コンビーフと小さな角切りのポテトを混ぜたもの)の空き缶が用いられ、音色はペラペラとして決して美しいものではなかった。しかし焦土と化した故郷を思いながら歌われた民謡は、「親を失った哀しみ」に充ちていた。
 日本兵になることを強要されて沖縄人は皇国教育を受け、国のために必死で戦ったはずだった。しかし日本軍は米軍に追われて沖縄を捨てて逃げ去り、それでも投降はしまいと山地に隠れていた沖縄兵たちは、米軍につかまって収容所へ入れられた。気がつくと支配者はアメリカ人になっており、沖縄出身の兵士たちは「自分たちは何のために、誰のために戦ったのか」という絶望感と徒労感に囚われた。
 その気持ちを何とかして表せないか、自分たちの歌で心を吐露できないか、と思っていたところに目に入ったのが、空となったレーションの缶だった。収容所時代の古い写真などを見ると、空き缶は子供の遊び道具として使われるほど、身近にいくらでもあったようだ。
 これを胴(胴体:チーガー)にして簡易な三線をつくれないかと考えるのは、日頃から民謡に慣れ親しんでいた沖縄の兵士にとっては自然な成りゆきで、彼らは空き缶に野戦用ベッドの脚を取り付けて、それを棹(ソー)とした。弦はパラシュートの紐や電線の芯を利用し、太鼓のかわりに空となった米軍の燃料タンクを叩いた。
 歌詞は思いつくまま、親に捨てられた哀しみと憤りを戦前からある民謡のメロディに乗せた替え歌が、収容所のなかで奏でられた。

勝ち戦さ願て 山ぐまいさしが
今や捕わりてぃ 屋嘉に泣ちゅさ
PW 哀りなむん
哀り屋嘉村ぬ 闇ぬ夜ぬ鴉
ゆるび無んむんぬ 鳴ちゅが心地
PW 哀りなむん

勝ち戦を願って 山ごもりをしていたのに
今や捕らわれて 屋嘉で泣く想いだ
PW(戦争捕虜)とは哀れなもの
哀れな屋嘉村よ 夜の闇のカラスのように
よるべない気持ちで 泣くような気持ち
PW(戦争捕虜)とは哀れなもの
(「PW無情」あるいは「PW節」と呼ばれた歌の一節より)

 屋嘉やか村(現在の金武村)には、沖縄でも最大規模の捕虜収容所があった。海岸の砂地に無数のテントが張られ、支給された衣服の背には、民間人捕虜と区別するために「PW」(Prisoner of War)という文字が記された。58_24.jpg屋嘉はこのPW専門の収容所で、本土出身兵5000人、沖縄出身兵4000人が収容された(うち2000人は、その後ハワイの収容所に移された)。
 敷地内では日本兵と沖縄兵が隔離されていた。アメリカ兵によって支給されるレーションを口にしながら、沖縄兵たちはようやく自分を取り戻し始めたところだった。

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