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58号線の裏へ 駒沢敏器
第23回 あの缶詰が食べたい
 いまここにキャンベルの野菜スープがあるとする。アンディ・ウォーホールの絵でも有名な、赤と白とに塗り分けられたデザインの缶詰だ。
 これを使って間に合わせの昼食をつくりなさいと言われたなら、あなたはどうするだろうか。僕はここにパンとサラダを添えることくらいしか思いつかないし、和食の素材を付け加えようとはまず考えない。トマト味をベースに細かく切り刻まれた野菜類の入ったそれは、あくまでも洋風のスープである。
 しかし知り合いの沖縄の女性は、およそ想像もつかないものを、ここからつくり上げた。常備してあるそうみん(沖縄の素麺。日本のものよりも太くて腰が強い)を利用して、アメリカとも沖縄ともつかない不思議な麺料理をこしらえたのだ。
 まず彼女は「これは美味しくないから」と言って、スープに入っているベジタブル・ミックスを取り出した。そして茹でてあった豚肉を冷蔵庫から持ち出し、それを細切りにしてスープに加えた。トマトベースの濃縮スープは水ではなくかつお出汁によって希釈し、ひと煮立ちしたところでそうみんを投入、仕上げに薬味として青いネギが散らされた。味は確かに缶詰のままよりも数段美味しく、アメリカ風の沖縄家庭料理といってもよかった。それにしても缶詰のスープと素麺を合体させるなんて、日本人の僕にはおおよそ考えもつかないことだった。
 驚いている僕を見て、しかし彼女は逆に不思議そうな顔をしていた。沖縄ではどこの家でもキャンベルの缶は常備されており、それを応用して沖縄に昔からあった料理と組み合わせることは一般的なのだという。
 「まず本土の一般家庭には、キャンベルなどありません」と僕は言った。「確かにスーパーに行けばありますが、日常食にアレンジするなどという発想は、絶対にないはずです」
 彼女はむしろそれに驚いた顔をして、「こっちでは子供のころからアメリカのものがあったから……」と言った。
 「まして素麺と結びつくなんて、これは沖縄にしかない珍現象です」
 「だってキャンベルのスープには、ヌードルが入っているのもあるじゃないの」
 「ですから、それはそれ、これはこれです」
 「でもあなた、オイルサーディンの缶詰だって、そのままじゃ食べないでしょう?」
 質問の意味がわからなかった。サラダやパスタに使うとか、とにかくそういう普通のことではなさそうだ。私が今帰仁なきじんに疎開していて、食糧がまだ配給制だったときのことだけれど、と彼女はオイルサーディンの缶詰をめぐる話を教えてくれた。
 今年で71歳になる彼女は、10歳のときに終戦を迎えた。疎開先の家は焼け落ちずに残ったので、収容所に入れられることはなかった。母親は毎日決まった時間になると、配給所の列に並んだ。支給されるものは自分から選ぶことはできず、配給所の係員から手渡されたものを使って、何かをつくるしかなかった。
 ある日母親は、見慣れない缶詰を持ち帰ってきた。アルミの弁当箱を小さくつぶしたような、取っ手のついている頑丈な箱だった。
 これは食べ物だろうか、と母親は娘に言った。まったくわからないと娘は答え、この丸いのを引けば蓋がたぶん開くんだよ、と促した。母親がそこに指をかけて開けてみると、小魚がびっしりと並んでいたので、ふたりはとてもびっくりした。
 こんなに魚ばかり食べられないさあ、と娘は内心思った。量だって少ないし、油でぎとぎととしている。しかしその油に小指をつけて味見をした母親は、まずはサーディンだけ取り出して塩漬けにし、魚の旨味が出ているオイルは、醤油を加えて魚醤の代用とした。それを「そーみんたしやー」(素麺の炒め物)に加えれば味のアクセントになる。塩に漬けた魚は、「たしやー」や「ちゃんぷるー」の具としても、豆腐(冷奴)にのせても使える。
 物資がない頃はいつでもこんな感じだった、と彼女は僕に言った。急にアメリカの味がやって来たけれど、見ただけではそれが何なのか想像がつかず、おそるおそる味見をしながら、自分たちの口に合うように工夫していくしかなかったのだ、と。
 占領する側は、自分たちの食事こそ最高だと何の疑いもなくそれを押しつける。一方で押しつけられた側は、それをそのまま受け取るのではなく、創意によって新しいものを生み出す。せいぜいが4、5年しか沖縄にいないアメリカ人たちが、そうした新しい食文化の誕生に気づくことはなかった。しかし沖縄では復帰を経てもなお、アメリカの持ちこんだ野戦食が増殖と変容を続けた。ひとつの缶詰のたどったその軌跡には、沖縄が支配者を受け容れていく心の推移がこめられている。
 沖縄を占領したアメリカ軍が持ちこんだ野戦食は「レーション」と呼ばれた。1945年当時だと、レーションにはA、B、C、D、Kの5種類があった。Aは準戦時食で、基地やキャンプなど戦地ではない場所で食される。Bは後方部隊が前線のフィールド・キッチン(戦場での調理場)に送りこむ温食、Dは高カロリーの非常食だ。そして沖縄へ大量に輸送されたのは、缶詰を主体としたCレーションと、空挺部隊用に開発された携帯食糧のKレーションだった。
 Cレーションは主食用の缶詰(Mユニット)と副食用の缶詰(Bユニット)、およびアクセサリーパック(煙草、マッチ、ガム、ナプキンなど)から構成された。MとBを3缶ずつと、そこにパックひとつを加えたものが、ひとつの箱に1日3食分として入れられていた。
 10種類も揃えられた主食のMユニットがどういったものであったのか、その内容をここに列挙してみよう。
 「豆と野菜の煮込み」
 「肉と野菜のシチュー」
 「ミートスパゲティ」
 「ハム、卵、ポテトのハッシュ」
 「豚とライスの煮込み」
 「フランクフルトと豆の煮込み」
 「肉とヌードル」
 「豚肉と豆の煮込み」
 「ハムと豆の煮込み」
 「野菜のシチュー」
 副食のBユニットのBはビスケットの頭文字で、こちらは6種類用意されていた。甘味で高カロリーの嗜好品が中心で、キャンディやコーヒー、シリアルにレーズンなどがひとつの缶に収められていた。
 これらレーション食が、占領地沖縄に大量に運びこまれた。そしてそのとき一緒に、やはり元々は野戦食として開発されたキャンベルの缶スープや、ホーメル社のポークランチョンミート(SPAM)の缶詰も、輸送機によって沖縄に58_23.jpg持ちこまれた。沖縄が最初に接したアメリカ文化は、学術や芸術といった知的に高度なものではなく、あくまでも軍隊仕様のものばかりだったというのが象徴的だ。
 兵士たちにしてみれば、レーションの缶詰など食べ物とは言えず、見たくもない代物であっただろう。家庭で食べるものとはおよそかけ離れた、戦地での味気ない代用食でしかないからだ。しかし沖縄の人たちの目には、それは色使いの点でも質・量の点でも、豊かさのシンボルのように映った。そして様ざまな食品を詰めた缶詰はやがて、彼らの日常と切り離せなくなっていくのだった。

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