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58号線の裏へ 駒沢敏器
第22回 小さな偶然
 ここから先は「アメリカグチの章」に付随した、追記のようなものだと思っていただきたい。取材活動を続けているとこのようなことも起こるのだという、ひとつの小さな偶然の発見だ。現在のわたしという存在が、終戦直後の沖縄とじかに結ばれたような錯覚を、この偶然はもたらしてくれたのである。

 自分の手元や基地の倉庫から物品が消えてなくなってゆくことを、アメリカ兵たちはどう見ていたのか。アメリカグチを生んだ、戦果を挙げた側の記憶だけではなく、物を盗まれていた側の思いや体験談も、できれば僕は耳にしてみたかった。もちろん盗難の規模にもよるだろうが、基本的には慈悲の気持ちで受けとめていたのか、それとも下劣な行為だと憤怒していたのか。いずれ親密に接することになる沖縄人に注がれていたアメリカ人の視線を、僕は知りたかった。
 しかしそれは、実現不可能のように思えた。何しろ60年近くもまえのことだ。当時、沖縄に占領軍の兵士として駐屯していた人の多くは故人となっているに違いないし、仮に誰かを探し当てたとしても、それだけのことでアメリカ本土へ行くわけにもいかない。戦後まもない頃の話を聞きだすのは、いまや沖縄ですら容易なことではないのだから、ベテラン(退役軍人)の同窓会が沖縄ツアーを開きでもしないかぎり、機会はないものだと思うしかないだろう。
 ところが、自分の気まぐれな思いつきなど夢想にすぎないんだと諦めていたある日、沖縄の捕虜収容所にいたアメリカ兵の手記を、目にすることになった。それも専門的な文献をあたっていて見つけたのではなく、書店で買った新刊書を手に電車に乗り、座席にすわって本を開いたところに、その手記は目に飛びこんできたのだ。
 本の題名は『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』(柴田元幸他訳、新潮社刊)。日本でも人気の高いアメリカ現代作家ポール・オースターが、編者を務めている。彼が自分の小説を作品として発表するのではなく、他者が書いたものを編集することになったのには、こんないきさつがあった。
 ある日彼は新作を発表し、その作品についてNPR局(全米公共ラジオ)からインタビューを受けた。放送が終わると、オースターは番組のホストを務める人物から、提案を持ち出された。番組のレギュラーになって、月にいちど物語を語ってもらえないか、というのだ。
 ただでさえ長編を書くので手一杯なのに、そのうえ毎月ひとつ短編を書くことなど無理だ、とオースターは思った。しかしその場で断るわけにもいかず、彼は自宅に戻って妻(彼女も作家である)に話をした。すると彼女は「あなたが書く必要はない」と言った。全米に流れている番組なのだから、リスナーの人たちからそれぞれ自分の物語を送ってもらえばいいのよ。
 このようにして番組は始まり、オースターは1年で4000通を越える投稿を受け取って、それをマイクのまえで朗読した。ひとりひとりそれぞれに人生はあり、それを語ることで自分は社会とつながれると信じる人が、かくもおおぜいいたのだ。懐かしい記憶や、事実とは思えない偶然の出来事。いつ思い出しても笑えるような、心温まるエピソード。それらはみな作家ひとりの想像力をはるかに超えており、現実や人生の重みと意味深さにあふれていた。
 やがて彼はこれらの手紙を、本として残すべきだと考えるようになった。電波はただ漂うだけだが、ここにある素晴らしいそれぞれの人生のストーリーは、かたちとして(しかもいつでも手に取って読めるように)残さなければならない。かくして、ひときわ心に残る物語がオースター自身の手によって、179編集められた。僕が目にしたのはそのなかの1編であり、最初の行を読んだだけで、電車のなかだというのに「あっ」と声を漏らしてしまった。
 「第二次大戦が終わった翌年、私は占領軍の一員として沖縄にいた」と書き始める人物は、カリフォルニアに住むロバート・ロック氏だ。
 彼は、あるとき自分のバラックから愛用の万年筆がなくなっていることに気づき、それと同じものを沖縄の軍作業員が身に着けているのを見つけた。物静かで端正に見える、信頼の置けそうな男だったが、疑う余地はないと思った。彼は万年筆を指差し、それを戻すようにと、男に片手を差し出した。捕虜の目には驚きが浮かび、表情はすぐに怯えに変わった。それでも渡そうとしない男に対して彼は怒りを覚え、声を荒げて強硬に迫った。
 一方は占領軍の上官であり、もう一方は捕虜にしかすぎなかった。男は深い悲しみと失望をあらわにしながら、やっとのことで万年筆を渡した。それ以来、その収容所に男が来ることはなかった。
 ところが彼の万年筆は、3週間後に自分の部屋で見つかった。そのときのおぞましい気持ちを、彼はこう書いている。
 「私はぞっとした。何とひどいことをしてしまったのだろう。(中略)男がこの貴重なアメリカ製品を手に入れるのはどれだけ大変だったことか。私にとってより、ずっと大切な品だったにちがいない」
 60年近くものあいだ、彼はこのときの悔恨を胸から消せずに自分を責めながら、ラジオ番組によってようやく懺悔の場を得たというわけだ。支配する者が不当な差別を働くという行為を、この自分がしてしまったという告白に感動の要因があるのは言うまでもないが、僕の感慨はまた、最初の1行目から始まる淡々とした書き方にあった。アメリカと沖縄がまだ接点を持つまえの様子が、そのままに描かれているからだ。
 「基地構内で何度か盗難事件が起きていた。網戸がナイフで切られ、私のバラックに置いてあった物もいくつかなくなったが、妙なことに泥棒は、菓子だの何だのといったどうでもいい物しか盗んでいかなかった。あるとき、床や木のテーブルの上に裸足の足跡がついて、乾いた泥がこびりついていた。すごく小さな、子供の足とおぼしき跡だった」
(以上、引用箇所はすべて柴田元幸訳による)

 彼は自分の気持ちを告白する機会を得たことに胸が熱くなっており、この書き出しの部分にはこれといった感情をこめてはいない。自分の万年筆も盗まれたのだと、早合点をすることになった要因を当時の状況と共に伝えているにすぎない。菓子などは「どうでもよく」、しかもそれは靴さえ持っていない子供のしわざなのだ。ところが大人が万年筆を盗んだとなったら話は別だ、ということである。
 沖縄の子供たちの戦果を、少なくとも彼は何とも思っていなかったのだ。哀れみも同情も特にそこにはない。それだけに逆に、戦果に夢中になっていた子供たちの様子がありありと目に浮かぶ。道は舗装されていず、雨が多いのでいつもぬかるんでおり、そこを歩く靴もなく、しかも裸足の跡はすごく小さい。
 何よりも得がたく感動的だと僕が感じたのは、アメリカのひとつの町に住む老人の記憶のなかに、収容所の様子や戦果のことがはっきりと残されていたということである。彼はそれを忘れることなく、現在の私たちにも伝えることになった。小さな偶然がひとつずつ手を結びながら、60余年の年月と太平洋という距離を越えて、いまここにもたらされたのだ。

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