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58号線の裏へ 駒沢敏器
第21回 ぼくたちは上手に生きた
 よそから来た者に応対するとき、沖縄の人にはひとつの際立った特徴がある。等身大の自分を相手に対して公平に差し出す、という姿勢だ。たとえば僕の友人はこんな体験をした。
 彼は日本画の画家で、この何年か沖縄の自然や風景をスケッチしている。納得のゆく数がたまったらそこから数点を厳選し、岩絵の具で色を着けて完成させる予定だ。
 いつものように車で風景を探していた彼は、今帰仁なきじんの山地を行く道でシークァーサー(沖縄原産の小さな柑橘類。島みかんとも呼ばれる)の露店を目にした。果実を売っているくらいだから花はもう終わりのはずだが、それでも少しは残っているのではないかと彼はふと思い立ち、その店の横に車を停めた。
 「シークァーサーの花を絵に描きたいのですが、今でも咲いている場所を知りませんか?」
 店番をしていた地元の若い娘に、画家は訊いた。彼女は宅急便の支度をしながらその質問を熱心に聞き、少し考えこんでから「自信はないけれど……」と言った。きっと遅咲きの花があるはずです。山のなかに行けば農家があるので、訪ねてみられたらどうでしょうか。
 画家としての勘がこのときに閃いたと彼は言うが、はたして山へ伸びる1本の細い道を当てずっぽうで入ってみると、途中で遊んでいる子供を見かけた。この辺に島みかんの農家はないかいと彼は訊き、うちのじいちゃんがやってる、と子供は道の遠方を指差して答えた。
 道の終点には時が止まったかのような一軒の農家があり、年老いた母親と帰郷している娘がいた。島みかんの花を描きたいのですがと言葉を向けると、老女はうちの主人が畑に入っています、と教えてくれた。
 果樹園には農家の主人がおり、遅咲きの島みかんがある場所まで画家を連れていった。私は作業を終えたら帰るけれど、あなたはいつまでも好きに描いていてよろしい、と彼は言った。事のあまりに自然な成りゆきに、画家はよく知っている場所にいるような気持ちで、花のスケッチに集中できたという。
 帰りに寄れということだったので、画家は遠慮なく農家を訪ねた。そして家に上がることを勧められ、お茶とお菓子が用意された。主人は日本画とは何かということを熱心に質問し、画家はそれにていねいに答えた。絵をめぐるそんなやりとりがしばらくあって、主人は改まった顔をして頼んできた。
 「うちの島みかんの花を見せてくれないか?」
 主人はそれこそ「穴の開くほど」、スケッチに見入っていたそうだ。だいたいはわかっていたけれど、こんな形の花びらだったのかと彼は心から感心し、画家の観察力とは凄いものだと賞賛した。遠慮するでもなく、かといって自分の土地を自慢するのでもなく、初対面の人物を相手に正々堂々とフェアに接してくることに、画家は驚きと感動を改めて感じたという。
 相手がどのような風体や人物であれ、頼まれごとに対して礼を尽くす美俗はいまでも日本の田舎には部分的に残っているはずだが、この農家の主人の最たるところは、普段は見慣れていないはずの絵を真剣に見て、自分の感想を相手にきちんと伝えようとしていることだ。彼にとってそれはお世辞でも何でもなく、人と差し向かいになる際の当然の行為なのだろう。人の相手をすることは自分をもまた公平に差し出すことであり、そこに上下の関係や曖昧な壁は、決して築こうとしないのだ。
 へりくだりもしなければ高圧的にもならず、まして妙な被害者意識すら持たない沖縄人の心の在りようから、「アメリカグチ」は生まれたのではないか。取材を重ねて昔の話を聞き、そして画家の体験談を耳にするに及んで、僕はしだいにそう確信し始めた。
 少なくともベトナム戦争が泥沼化する以前の沖縄では、アメリカと沖縄が共存していこうとする光景があちこちで見られた。男にとって基地は戦果の宝庫であり、ハーニーさんにとってアメリカ兵は金づるでもあった。そういう生々しくしたたかな面も持ちながら、戦後からの十数年間で温かい関係が築かれたのもまた確かだ。そしてそのような関係づくりを仕かけたのは統治者のアメリカ人ではなく、支配される沖縄人の側だった。
 「いまはどうなのか知らないが、沖縄の基地に配置が決まるとアメリカ兵は家族で喜ぶ、とぼくはアメリカ人からじかに聞いたよ」
 銀髪を掻きあげながら、復帰まえの事情を平山さんは語った。
 「どの国へ赴任しても、基本的に彼ら軍人は迫害される。それをまた武力で抑えこもうとして、衝突が生じる。そこまでいかなくても、疎ましがられるのは確かだね。しかしなぜか沖縄では、受け容れられてしまう。それどころか、人間どうしの絆まで生まれる。ぼくは君に取材の依頼を受けたときから、ずっと考えていたんだ。ぼくらの、この博愛主義は何なのだろうと……」
 その根源にあるものを、彼はいまだに見つからない言葉を探すかのように、まずは「赦し」だと表現した。ただ耐えるのではない、人を赦す在りかたがぼくらの血には流れている。
 しかし表情はいかにも納得のいかない様子で、「いや赦しではないし、癒しでもない。そういうことじゃない」と、彼は自問自答を続けた。そしてようやく、あえて言葉を見つけるなら、と顔を上げた。
 「相手を褒め称える、賛美の美学かな。誉れといっていい。相手がどんな者であれ、行き交うことになった以上は、相手のなかに美しさを探して見出し、それを伝えてお互いに理解しあう。そして実際に、そういう時期があったんだ。戦後しばらくしてから、いつの間にかアメリカ人と共存していける社会が出来上がって、共に上手に生きた時代があった。憎んでも何にもならない。赦しあうことなしには、発見はないからね」
 僕らのいるホテルのレストランには、平山さんと同年代くらいの女性たちが大勢いた。みな闊達にお喋りを楽しみ、明るく笑っていた。
 「誰もがあんな楽しそうな顔をしているが、胸のなかには消せないものもあるよ……」
 彼は聞き取れないほどの声で呟いた。
 「あっちのテーブルも、こっちのテーブルも、誰かしら何らかのかたちで戦果とかヤミに関わっていたはずだ。何もなかったかのように、口にしないだけでね」
 貧しさと憎しみを抱えるのではなく、それを呑みこんで超えないことには、戦後の沖縄の復興は果たし得なかったのだろう。そんな苦労や思い出をどこか遠くへしまったまま、女性たちはあくまでも朗らかな笑顔を見せていた。
 相手が誰であれ、そこに長所や美点を見出して評価し、それを交流の糸口にする。沖縄の人たちが身につけた英語「アメリカグチ」は、そのような気風から生まれ育まれたものだったのかもしれない。そして僕は個人的に、ここにもうひとつ人間臭い要因を付け加えてみたくなる。それは彼らの持つ「好奇心」だ。
 少年だった平山さんは、大人の制止を振り切ってでも、アメリカ軍の装備を目にしたかった。優秀な高校生はいち早く英語を身につけて得意気だった。メイドは主人を自分の雇い主として扱わず、ひとりの男性でしかないことを見抜いていた。あるいは自分の育てた島みかんの花弁を、絵のなかに再発見しようとした農家の主人。単にお人好しであるという以上に、彼らは自分という個性を土台に、人や物に対して強い好奇心を発揮している。その好奇心がやがて相手への理解につながり、自分の言葉や行動で自分なりの意見や評価を差し出そうとする。
 ちなみに島みかんを道端で売っていた若い女性から、ある日画家のもとへ1通の手紙が届いたそうだ。そこには「シークァーサーの花は見つかりましたでしょうか」と、書かれていた。

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