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58号線の裏へ 駒沢敏器
第19回 少年が英語を耳にした時
 いまの沖縄でアメリカグチを話せる人を見つけるのは、かなり難しい。60歳から70歳代くらいの人をつかまえて「昔あなたが使っていたアメリカグチを教えてください。沖縄の言葉が珍妙に英語化した、混血児のような言葉を現在に伝えてください」と頼んでも、覚えている人はほとんどいない。
 これは、しばらく外国に住んでいた人が、そのときはその国の言葉を使えたのに、帰国して年月が経ったら忘れてしまうことにも似ている。しかもアメリカグチの場合はまったく不完全な言語で、体系化などしようもないから、ひとつの文化として残すこともきわめて困難だ。
 しかしアメリカグチがどのようにして使われることになったのか、その経緯をたどり直すことならできそうだ。英語が沖縄の文化や人びとのなかに侵入していった背景を、証言を通して検証してみるということだ。
 そのためには、子供のときに終戦を体験し、次つぎとアメリカグチが生まれた50年代に軍作業に関連し、その体験に意味を持たせることができるような人物を、探し出さなければならない。さらに戦果を上げることに手を出していた人物なら、なおのこと貴重だ。
 そして僕はひとりの人物に出会うことになった。平山良明さん、今年で71歳になる歌人だ。彼は現在、沖縄タイムスの歌壇選者を務めるかたわら、沖縄の万葉集といわれる「おもろさうし」を研究する会を主宰している。いわば言語の専門家であり、その一方で彼はまた、琉球大学の生物学部を卒業したのちに高校で教鞭を執っていた経歴を持っている。
 そのような人物が、しかも若いときに軍で働き、戦果でその職を失ったと本人から耳にするに及んで、僕は矢も盾もたまらなくなってしまった。彼に話を聞けば、アメリカグチの黎明期からの系譜が明らかになるのではないか。
 しかし彼から返ってきた言葉は、期待に反して素っ気ないものだった。銀髪のオールバックをうつむき加減にして、彼は小さな声で「実はアメリカグチはほとんど覚えていないんだよ」と、自分でもやや無念そうに言った。
 「あの頃は生きるのに必死でね、ただやみくもに歩んでいただけなんだ。だからこそ、わけのわからない英語を一生懸命に使ったわけだが、いま話してくれと言われてもそれは無理なんだね。でもぼく個人の体験でよければ、教えてあげることもできる」
 彼自身からアメリカグチを拾い出すことはできなかったが、伝えてくれた内容はやはり当時の生々しさを物語っていた。戦後の困窮した生活のなかに、突如として英語が混入してきた歴史を、彼は身をもって体験していた。
 最初に英語を耳にしたのは、彼が当時住んでいた今帰仁なきじんに米軍が入ってきた45年4月だったという。5月まで沖縄本島の北部一帯を米軍が占領していた期間、彼は煙草を口にするアメリカ人を海で見かけた。
 「アメリカ兵がね、海を見ながら煙草を吸っているわけだよ。でも沖縄の人と違って、彼らは根元まで吸わない。半分くらい吸ったら捨てるんだ。それを見てかっこいいなあと思って、当時はまだ10歳だったぼくは、それを拾って仲間と吸っていた。するとアメリカ兵も面白がってね、ギブミーシガレットと言うと、煙草をちぎって投げてくれる。これが最初の英語との接点だったね」
 占領をはたした米軍はその後収容所を設け、平山少年もそこへ捕虜として入れられた。夏なので子供は裸同然であり、大人たちの制止をよそに、彼はキャンプのなかへ入っていった。武器や物資が物珍しく、間近で見たかったからだ。
 「彼らはいろいろなことを教えてくれて、本当に楽しかったよ」
 つくづくよかったという風情を満面に浮かべながら、なぜか輝いていたなあ、と彼は呟いた。
 「彼らの持っている道具に触りたくてね。チョコやガムなら気前よくくれるんだが、武器に触ろうとすると『デンジャー!』という。どうしてこのアメリカ人はうちなぁーぐちを知っているんだろう、と思ったものさ。沖縄の言葉で『たいへん』とか『すごい』というのを『でえじ』というけれど、それに聞こえたんだね。ああ、この武器は大事なものなんだと。そんなふうにして、最初は音の似たところを接点に、やがて英語を習得していくことになる。戦争で傷ついたなんていう悲観はほとんどなくて、かといって目のまえにいる新しい支配者のアメリカに迎合するなどという気もなく、せっかくだから互いに何かを共有しようという意識が強かったなあ」
 その後平山さんは高校卒業まで今帰仁で過ごし、琉大に入ったその年にキャンプ桑江にアルバイトの職を得る。1953年のことだ。基地への憧れのようなものもあったが、何よりも英語を話す高校の先輩に対する尊敬の念が、自分を英語圏の文化へと突き動かしたと彼は言う。
 朝鮮戦争が勃発した1950年をさかいに米軍は沖縄の基地をにわかに軍事化し、多くの作業員を民間から募り始めた。そのときに最優先して基地へ採られていったのは、本来ならば大学に進学することになる高校3年の男子生徒たちだった。
 少年時代の戦果や、アメリカン・スクールとのスポーツ交流などを通して、成績が優秀な生徒のなかには英語をかなり解する者もいた。彼らは将来の留学を確約され、基地内で高度な責務をこなした。琉球大学へ進む者も当然ごく一部に限られてはいたのだが、大学進学組はいわば「軍雇用員こぼれ」でもあったわけだ。
 「ぼくも試験を通って経理会計のシニア・クラークになってね、こんなに大きい、いまで言う電卓を叩いていたよ」
 その大きさを表すとき、確かに彼は誇らしそうに見えた。英語の試験はまるで駄目だったが、理系に進学したこともあって計算には強く、10倍ほどの競争率を彼は勝ち残った。
 「本当は大学に通いながら基地の職を得てはいけないんだが、ぼくはそこを黙って通した。そのときの給与は白人が週300ドル、黒人が200ドル。日本から派遣されてきた人たちが100ドルで、英語ができるフィリピン人は150ドルだった。沖縄人は最も低くて、仕事の内容によって40から80ドル。ぼくは48ドルもらっていたよ、高校教員の給料が40ドルだった時代にね」
 しかしその夢のような生活も、長くは続かなかった。平山さんに「戦果アギヤー」(戦果の運び屋)との噂が立ち、ゲートで厳しいチェックを受けるようになったからだった。

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