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58号線の裏へ 駒沢敏器
第18回 ミー、オキナワン
58_18.jpg 終戦の1945年8月からさかのぼること同年4月、沖縄は既に日本ではなくなっていた。アメリカ軍はニミッツ宣言において南西諸島を管轄下に置くことを宣言、沖縄本島に12カ所の難民収容所を設けた。
 山間や洞窟に身を潜めていた難民たちは次つぎと投降し、各地の収容所に集められた。ここで彼らは「民間人捕虜」としての扱いを受けることになり、飢えの不安はようやく解消された。それぞれの収容所によって量や回数に違いはあったようだが、1日に最低1回はレーション(野戦食)がもれなく支給されたからだ。
 詳しくは別章で触れるが、当時の米軍レーションにはいくつかの種類があり、沖縄では缶詰類を中心としたCレーションと、携帯に便利なKレーションが主流だった。蝋引きされた箱を開けると缶詰の肉やスープが入っており、小さな袋にはチューインガムやコーヒー、マッチと煙草などがひとつのセットになっていた。
 見たこともないご馳走と引き換えに、収容所の捕虜たちは軍の作業を手伝わされた。草刈りやテント張りなど、ほとんどが基地を整備するための単純な肉体労働であり、貢献の度合いに応じてレーション以外のボーナスも支給されることがあった。衣服や化粧品などの装飾品や、煙草や菓子などの高級嗜好品だ。このときアメリカ人たちは、自分たちの豊かさをまざまざと見せつけることで、沖縄を骨抜きにしようと目論んだのだろうか。あるいは彼らにとっては、それが当たりまえのことだったのか。いずれにせよ、これらの豊富な物資はその後、沖縄人たちのあいだで「戦果」と呼ばれることになる。言葉からも推測できるように、アメリカの物資をあてにして手に入れることはひとつの業績である、という意味だ。そしてその戦果が戦後沖縄の大衆文化やヤミ市場を大きく支える原動力となろうとは、当のアメリカ軍も想像してはいなかっただろう。
 民間の難民収容所には、旧日本兵も紛れこんでいた。戦争捕虜になることを怖れたのだろうか、本来であれば別の収容所にいるはずの彼らは沖縄人になりすまし、作業を通してボーナスを受け取ることも頻繁に起こった。それを重くみたアメリカ軍は「Are you Japanese or Okinawan?」と尋ねてまわり、このとき「日本人などであってたまるものか」という意味もこめて、沖縄人たちは「ミー、オキナワン」という言い方を覚えた。ものをせがむ「ギブミー」を除いては、初めての英語だった。これがアメリカグチの始まりであると、僕は推測する。なぜなら大和に占領されていた時代は、彼らは「自分は沖縄人である」とは、口に出しては言えなかったからだ。
 久志の収容所(名護市の東端、キャンプ・シュワブのある辺野古に近い場所)にいた詩人の船越義彰氏は、沖縄戦終結当時の心境をこう語ってくれた。
 「大和がいなくなってくれて、本当に晴々とした気持ちでした。初めて自信を取り戻せる気がした。英語を口にしていても、何ともいえない高揚感があったのです」
 沖縄の言葉ではなく、自分たちを支配する異民族の言葉を使うことで、皮肉にも沖縄人は主権を回復した。なぜなら日本人から人種差別をされ、自分たちの言葉さえ「方言」として禁止されていた彼らは、アメリカのまえでは沖縄人でいることを許されたからだ。そのときに必死で口にした崩れた英語は、誇りを回復する足がかりのひとつでさえあっただろう。
 しかし沖縄人として復権されたかのような束の間の錯覚のなかにいた彼らは、新しい現実と向かい合うことになる。いくら自分は沖縄人だと口にしたところで、本来ならそれを声を大にして言いたい忌々しい日本人たちは、既にいないからだ。目のまえにいるのは次なる支配者であるアメリカ人であり、アイデンティティ復活への確信が脈々と流れていたはずのアメリカグチの対象は、アメリカに向けざるを得なくなった。「ミー、オキナワン」を原点にアメリカグチは、アメリカと渡り合う次なる武器として、新しい展開を迎えることとなった。
 45年の秋頃にはあらかたの作業が終わり、労働力として必要のなくなった捕虜たちは解放された。ある者は故郷へ帰ってバラックを組み上げ、またある者はアメリカ軍が供出したツー・バイ・フォーの家に住み始めた。コザをやや北に上がった石川にはツー・バイ・フォー住宅が集中し、このような歌がつくられた。

 見渡すかぎり 便所街 エー
 ドラム缶の近代便所
 エッサエッサと ドラム缶から
 汲みだすところだい
 後は靖国へ 参ろうじゃないかいな
 夜の石川 恋の街
 あの辻 この辻 立ち寄れば
 アイラブユー ユーラブミー
 ギブミー シガレット
 ギブミー チューインガム
 ギブミーチョコレート てな調子じゃ
 (石川かぞえ歌:原詩は小那覇全考おなはぜんこうによって沖縄の言葉で書かれた)

 1946年になると軍作業は賃金制となり、基地で働くことは憧れの対象となった。収容所から解放されはしたものの、生活は却って貧しくなっていた。飢えを凌ぐために荒れた畑でイモを探し、山に入って野ネズミを獲るような生活に逆戻りしてしまっていた。そこで大衆は何とか基地での作業を得ようとし、採用されるために必死で英語を覚えた。目的は安い賃金ではなく、基地の倉庫に山高く詰まれている物資や食糧、そしてメスホール(簡易食堂)に捨てられている大量のご馳走だった。捕虜だったときにそれを垣間見てしまった沖縄の人たちのあいだでは、労働賃金以上に「戦果」を狙うことが流行した。それまでの大和とは比較にもならない豊かさに触れた沖縄の人たちは、戦果を上げることに喜びを覚えるようになっていた。
 「フェンスとはいってもお粗末なもので、杭を打ってそこに金網を張っただけだったんですよ」
 新城竹泉さんは1948年の生まれだが、身近に聞いた話として、当時の様子を教えてくれた。彼女は60年代後半にヤミ物資を扱っており、ベトナム戦当時には黒人街として知られた照屋で豆腐屋を営んでいた。
 「10歳から15歳くらいまでの男の子はみな、戦果を上げに行かされたものです。フェンスは『かなあみぐゎー』と呼ばれていたのですが、昼間のうちにその下に穴を掘って、夜になるとそこから忍びこむんですよ」
 連載第3回で登場した「ジミー」の稲嶺盛保も、そんな子供たちのひとりだったのだろう。
 物を盗みに基地へ入ることに、当時の沖縄人は罪の意識がなかった。むしろ英雄視される行為だった。戦争に負けたのは沖縄ではなく日本であり、勝手なことをしているのはアメリカだという意識があった。基地はもともと自分たちの土地であり、そこを一方的に奪っているアメリカから物資を奪うのは、彼らにとっては五分五分の行為だった。あるいはどれだけアメリカを欺くことができるかという知恵の実現に、彼らは沖縄人としての誇りさえ感じていた。
 「戦果にまつわる、面白い話もあったんですよ」
 必ずしも華々しい戦果ばかりではなかったことを、新城さんは教えてくれた。
 「やはり男の子だからなんでしょうかねえ。初めて見たタイヤに目を奪われて、盗んで来たんですよ。親はそれを見て唖然として、『食べられるものを取って来い!』と出直しをさせていたようなこともありました」
 家族で食べる食糧だけではなく、大人も少年も、しだいに嗜好品に目を向けるようになった。少年たちはアメリカグチを覚えて米兵と知り合いになり、戦果を流してもらうことも覚え始めた。軍作業員として採用された大人たちも、アメリカグチを用いながら軍属の信頼を勝ち取り、その裏で倉庫から盗んだものをフェンスの外へ大量に持ち帰った。そして戦果はやがてヤミ市場に流れるようになり、基地内で売られている原価の数倍もの値をつけることもあった。特に煙草には法外な値段がついた。戦果は突如、莫大な稼ぎをもたらすものとなり、当時は民間でも高給取りとされていた高校教師たちまでが、次つぎと教職をなげうって軍作業に出願した。
 「ラッキーストライクはアカダマとも呼ばれたし、日の丸ぐゎーなんていう言い方もありました」と新城さんは言う。「キャメルはシカグヮー、チェスターフィールドは提灯ぐゎーです(パッケージの赤いCの文字が提灯のように見える)。こんな風にあの当時の沖縄人は、アメリカの言葉を沖縄風に焼き直したり、その逆に沖縄の言葉を英語風にしたりしていたんですね」
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、沖縄の米軍基地は反共の一大拠点へと性格を大きく変えた。警備は厳戒になり、ゲートでのチェックを許された者だけが、基地への出入りを認められた。しかし基地内で働く沖縄人の戦果熱は収まることはなく、手口はさらに大胆かつ巧妙なものへと変化していった。女性と米兵のあいだでは恋も芽生え、アメリカグチもさらに複雑な展開を迎えることになった。

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