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58号線の裏へ 駒沢敏器
第16回 ホテルの見た、夢のあとさき
 沖縄の日本復帰と申し合わせたかのように、翌年の1973年、ベトナム戦争は終結した。その2年後には海洋博が開かれ、沖縄はそれを機に、日本本土からの観光客を新たな収入源として期待した。しかし現実は開催期間だけの一時的なブームに終わり、大和人が沖縄の文化に興味を示したとは言い難かった。島内ではホテルの倒産が相次ぎ、老舗の京都観光ホテルも客を選んではいられなくなった。生き残りがかかっていた。
 本国から短期の用事で基地を訪れた上官と、彼らを運ぶ民間航空会社のパイロットおよび乗務員に客筋を限っていた京都観光ホテルは、一般の兵士とその家族にも部屋を開放することにした。新たに着任するときは約1カ月、任務を終えて帰国する際にも最低1週間、彼らは基地の外での待機生活を余儀なくされる。その間、監視の目を離れた場での彼らの行動は、幼稚で無軌道なものだった。
 徴兵ではなく、自ら軍隊に志願する彼らの多くは、本国に生きる場所を持たない人たちだ。低所得者用の住宅に住み、常に何かに抑圧されているような不満を、胸のうちに抱えて生きている。自分の行動を律しておくための目的を将来に対して具体的に持てず、上昇しようにもその手段や機会を思い描くことが難しい。それだけに、軍隊という規範を失うと自分でも何をどうすべきなのかわからず、気分だけで行動してしまいがちだ。志願兵の全員がそうだとは限らないが、基地を離れた彼らが、本国でいつもしているとおりの生活を、そのまま民間のホテルでもしてしまうことは想像に難くない。
 「ハンガーやタオルなどの備品を全部持っていくくらい、あの人たちにはまったく普通のことでしたよ」
 マネジャーの林加代子さんは、さっぱりと言い切った。話を聞いて呆れている僕に、彼女は取り立てて反応することもなかった。
 「毛布を夜のうちに部屋の窓から落とすとか。消火器を廊下じゅうに撒き散らすとか。そんなことをして憂さでも晴らさないことには、他に楽しみがなかったのかもしれませんね」
 部屋の家具やベッドが壊されるのも、日常茶飯事だった。当時、京都観光ホテルのレストランにはスシ・バーがあり、若い兵士がお金を払わずに静かに出ていくことも、一度や二度ではなかった。
 「そういうときは英語のできるおばさんが、胡屋十字路まで追っかけていったものですよ。相手は軍人なんだからそこまでしないでもいいさー、って私が言っても、従業員も普段から我慢していたんでしょうね」
 長期滞在をするうちにホテルを自分の家のように勘違いし、延長で居座る家族も多くいた。1カ月の予定が2カ月にまで延びると、部屋がオーバーブッキングになるため、ホテル側は部屋を移るように要請するしかなかった。しかしそれでも「まえから泊まっているのだから自分の部屋だ」と主張してくるのが当たり前で、林さんはそのつど英語で渡り合った。
 「アメリカの人は自分勝手で主張が強いですからね、こっちも厳しく言わないとだめなんですよ。最後には怒鳴って追い出すくらいの覚悟がないと」
 父親の栄華から一転、アメリカの悪い面ばかり体を張って受け止めることになり、少々のことでは驚かなくなった彼女にも、怒りを忘れられないことがあった。
 ある日、あまり名前を聞かない航空会社の関係者が泊まりに来て、宿泊代を小切手で払うと言い出した。不景気のあおりでアメリカの航空会社が次々と倒産していた時期だったため、彼女はそれを断ってカードでの支払いを要求した。
 案の定、その男はカードの使用を執拗に拒んだ。そして押し問答を繰り返した数日後、彼の泊まっている部屋からテレビがなくなっていた。夜のうちに非常階段から持って出たのだと判断した彼女は、警察には行かずにすぐさま空港通りの質屋を見てまわった。
 「警察なんか行っても調書だけ取って終わりですからね。それで1軒1軒しらみつぶしに自分で調べたら、見つからないわけですよ。これは店が隠しているなと思って、まえから怪しいと目を付けていた質屋に行ってみたんです。そうしたら、店主が最初からけんか腰なんです。まさかマネジャー本人が来るとは、思わなかったんでしょうね。それで『今日か昨日、テレビの質入があったんじゃない?』と鎌をかけてみると、『何でそんなことを言う権利がある!』と、怒鳴り返されましたよ。とにかく、想像もつかないようなことが、いろいろと起こりましたねえ……。でもね、私思うんです。このホテルもコザの街も、そういう犠牲のうえに成り立っていて、現在があるんだなあ、って」
 現在の京都観光ホテルに滞在していても、昔の空気は感じられない。部屋のつくりも調度品もそのままのはずなのに、かつての栄華やその後の喧騒を思い描こうとしても、頭のなかでうまく像を結んでくれない。客数が少ない時期だからだろうか、館内は静まり返っていて、コザにいるという実感すら遠くなってゆく。
 おそらくこのホテルは、本来の役割を終えて久しいのだ。老いゆく空気のなかには、もはや当時の気配すら残ってはいない。僕はテレビを消して部屋を出て、夜のコザの街を歩くことにした。
 ペイデイ(給料日)の週末、通りは久々に賑わいを見せていた。シャッターの下りた暗い仲見世では地元の不良少年たちが集まり、傍らに置いたラジカセからは、大きな音でラップが流れていた。短い髪に思い思いの剃りこみを入れた彼らの眼光は、酒の酔いに任せているだけのアメリカ兵たちの目よりも、ずっと鋭く冷たかった。他者に威嚇を向ける目ではなく、生き様を自分の内に問いかけているような目だ。那覇にも不良の集まる場所があるが、こんな目をした少年たちを見かけることは、あまりない。
 しゃがんでいる女の子たちのまえを通り過ぎ、暗い仲見世から表の通りへ出てみた。Yナンバーを付けた車が行き交い、あちこちのライヴハウスから、シンバルの弾ける音や、重くくぐもったベースの音が外へ洩れていた。僕は歩道を歩きながら、30年まえのコザと現在を何とか結び付けてみようとするのだが、普段着のアメリカ兵たちが幼稚に見えるからか、咄嗟に身構えるような殺気はどこにも感じられなかった。
 かつてはフェンスの中と外との交流があり、コザのバンドは基地のバーでも演奏をしていたという。ブロークンの英語を話す者も多くいたし、紫煙の充満している店もあった。基地があることで犠牲を強いられている街はまた、戦争によって毎晩のように賑わいを見せていた。しかしいまでは、その残滓すら嗅ぎ取ることができない。基地の空気が漂うなかで生まれ育った、あの眼光の冷たい少年たちは、持て余した若さをどこへ向ければいいのだろう。
 こんなホテルをしていても、たまにはいいこともあるんですよ、と林加代子さんは言った。お腹の大きな宿泊客がいて、滞在中に赤ん坊が生まれた。2日ほどして退院してきた母親は、父親になったばかりの夫を伴って、前社長の諸見里さんに願い立てをしてきた。京都ホテルに泊まっているときに生まれたので、その慶びと記念に、この子の名前をキョウト君にしていいでしょうか。
 夜の街に繰り出している外人も、そしてラップを鳴らす少年たちも、いまは誰ひとりとして、そんなエピソードは知らないだろう。日本国の「思いやり予算」によって、基地のなかには大きな宿泊施設がいくつも完備されている。基地に用のある者や、着任や帰国の準備をする者はあまりフェンスの外に出ることはなく、内側だけですべてが完結する。

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