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58号線の裏へ 駒沢敏器
第15回 コザの燃えた夜
 ガスの充満した部屋で、マッチを擦ったらどうなるか。おそらくほんの1本でも爆発が起こり、燃え広がった火はしばらく消えることがないだろう。
 コザでマッチを擦ったのは、米陸軍病院に所属していたハロルド・ジェイムズ。1970年12月19日の夜11時すぎ、車を運転していた彼は、人が道路を横断していることに気がつかなかった。そのまま彼の車は、パレス・ホテル(現センチュリー・ホテル)まえで軍雇用員と接触、被害者はその場にもんどりうって前頭部に怪我を負った。
 ただちにMP(米軍憲兵隊)が駆けつけて事故の調査と処理にあたったが、道行く人たちは足を止めて、その様子を疑わしそうに見守った。怪我人に対しては何の補償も謝罪もなく、加害者は身内の手で無罪とされるのではないか、と疑っていたからだ。
 同じ年の9月、南部の糸満で似たような事故が起きていた。米軍ワード軍曹は泥酔した状態で車を運転し、歩道を歩いていた金城トヨさんを即死させた。しかしMPはその場しのぎのような処理をしただけで、何の説明もなく事故車をレッカー移動させようとした。これに怒った住民はレッカー車を取り巻き、トヨさんの初七日まで現場を封鎖して守り通した。にも関わらずその後、ワード軍曹には無罪の判決が米軍から言い渡された。これを不服とした抗議大会が開かれ、糸満町内でデモ行進がおこなわれた。深夜のコザで接触事故が起きたのは、このデモから4日後のことだった。
 コザの住人たちの鋭い視線にさらされながら、その怒りをまったく解さない振りをするかのように、MPはごく簡単な聴取だけをしてジェイムズを釈放した。しかも被害者は怪我を負ったまま、路上に放置されていた。気がつくとMPと加害者は、ことの成り行きを見守っていた住民たちに包囲され、身動きが取れない状態になっていた。
 包囲された彼らはおそらく、言いようのない恐れを、このとき肌でひしひしと感じ取ったのではなかったか。従順で大人しく、ともすればおつむが少々足りないのではないか、という程度にみくびっていた沖縄人の胸のうちに、怒りの塊が大きく膨らんでいたことを、アメリカ人たちは薄々感じながら忌避してきたからだ。しかしこの晩だけは、知らぬ振りをして避けることはできなかった。
 「沖縄の人がずっと黙って耐えてきたことを、アメリカ人たちは真剣に考えたことなどなかったでしょう」
 京都観光ホテルを父親から継いだ林加代子さんは、暴動のあった夜のことをそう語る。
 「私は当時中学生で首里に住んでいましたから、これといった実感はありません。しかしこの周辺(コザ市街)の人たちは、耐えに耐え抜いていたんです。それが一気に爆発したのですから、アメリカ人たちもさすがに慌てたのではないでしょうか」
 包囲されたMPたちは冷静さを失い、「ゴー・ホーム!」と声を上げて命令し続けた。この言葉の意味するところがわかっているコザの住人たちは、道ゆく人に声をかけては仲間に加わるよう促した。その人数は増える一方で、最初は数人だった目撃者を中心に、人の輪は事故のあった路上に溢れ出していた。殺気にも近い空気を感じたMP十数人は、その恐怖を侮蔑をもって振り払うかのように、いっせいに威嚇射撃をした。これがすべての始まりだった。
 その場にいた住人たちは軍用車やMPカーに駆け寄り、1台につき数人がかりでひっくり返し始めた。深夜の道路では裏返しにされた数台の車が赤々と炎上し、ガソリン・タンクの爆発が相次いだ。怒りの収まらない住人たちは走っている軍用車も身を呈して止めさせ、なかに乗っているアメリカ人を引きずり出して車内に放火した。
 裏通りや歓楽街からも続々と人が出てきて、Yナンバーの車を、火炎瓶を手に次々と狙い撃ちした。コーラの瓶にガソリンを詰めて駆けつけたホステスの姿もあったという。炎上した車の台数は70台以上、暴徒と化した一群は嘉手納かでな基地にも乗りこみ、雇用事務所と米人学校を焼き討ちした。これに応戦するために米軍は500人の武装兵を用意、戦地ベトナムで使用しているものと同じ催涙弾(CSガス)を乱射した。
 最初の事故が起こったパレス・ホテルと並びにあった京都観光ホテルは、玄関のゲートをただちに封鎖した。駐車場にある車の大半がYナンバーだったからだ。その夜もホテルは満員、宿泊客たちは窓から暴動の様子を戦々恐々として見届け、一歩も外へ出られない状況だった。炎と怒号、瓶の割れる音は未明まで消えることがなく、事件を伝える号外を手にした者たちは、記事を読んで感涙にむせんでいた。
 「思えばあの夜から、変わっていったのだと思います。コザも、そしてこのホテルも」
 創業者の父親に比べ、跡を継いだ娘はあまりいい思いをしていない様子だった。暴動をさかいに、コザとアメリカの関係は徐々に荒廃していった。
 「沖縄はアメリカを受け入れていたのに、何かがあるとやはり彼らは威圧的に出てくる。コザ暴動で市民にあれだけの怒りを爆発させた後に、軍の取った手は危険勧告ですよ。いわゆるオフリミットですね」
 オフリミットとは、兵士や軍関係者たちが基地外に出ないよう、米軍司令部が勧告するものだ。表面上は基地をあげての自粛のようにも映るが、事実上の嫌がらせとして知られる。兵士たちを基地から一歩も出さないことで、米軍はコザの商業に対して打撃を加えることができるからだ。客を失った地元は、基地をあてにした商業関係者と、もともと関わりのない一般住民とに分裂することになり、結束を弱められてしまう。京都観光ホテルの客足も急速に途絶え、ほぼ開店休業に近い状態に陥った。
 その後沖縄は1972年に日本に復帰し、アメリカからの民間機は、必ずしも嘉手納基地を使用しなくても済むようになった。それに加えてコザが最も大きく変わったのは、やはりベトナム戦争の終結だった。基地に駐在する軍人の数が激減したことは言うに及ばず、停戦合意がおこなわれたパリ和平協定において、米軍の徴兵制が廃止されたことが大きかった。
 「徴兵制がなくなって志願制になったことで、アメリカ人の質がぐんと落ちたんです」
 とうに諦めを通り越して、さばさばとした苦笑さえ浮かべながら林さんは言った。
 「うちも民間機の乗務員だけを泊めていたのではやっていけないですから、軍人やその家族を受け入れることにしたんです。赴任してくるときや、逆に任務を終えて本国に帰るときに、基地を出て長期滞在する必要があるんですね。そのときにうちを利用してもらうのですが、家族ごと受け入れて1カ月の滞在などはざらでしたから、復帰まえとは違ってトラブルの続出です。いいこともありましたけどねー」
 林さんは「それも昔の話だ」とでも言わんばかりに、思い出し笑いをしてみせた。楽しい笑いではなく、あまりの馬鹿馬鹿しさに出た苦笑だった。
 「数えるとキリがありませんよ。部屋を壊されたり、物が盗まれたり。アメリカ人は恩を仇で返すような人種なのだと思いましたね。酒を飲んだら、あの人たちはおかしくなりますからね……」

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