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58号線の裏へ 駒沢敏器
第14回 混乱の予兆
 意外と見落としがちなことだが、沖縄の米軍基地に用があって訪れる者は、軍の関係者だけではなかった。基地に物資を納入する物流の関係者や、メーカーの担当者なども多くいた。
 京都観光ホテルが創業された1967年といえば、ベトナム戦争がいよいよ激化してきた時期でもあり、マスコミ関係者も多く沖縄を訪れた。もちろんアメリカに統治されていた沖縄には民間飛行場などはなく、戦争に加担する者も報道を通して批判をする者も、軍の使用する飛行場へ降り立つことになった。
 しかし基地内には、全員を収容できるほどの宿泊施設はなかった。そこで彼らは車で那覇のホテルまで南下することになるのだが、基地の近辺で短期滞在をするしかない者もいた。本国から人を運び、ふたたび本国へ戻ってゆく民間機のパイロットと乗務員だ。
 京都観光ホテルはそこに目をつけ、米軍を通して複数の航空会社と契約した。パンナム、ワールド・エアウェイ、アメリカン・エアウェイズなど、今はなき懐かしい会社が名を連ねる。クルーたちは短い日数をこのホテルで過ごし、本国から旅客機がやって来ると、6時間の給油時間を利用して到着便のクルーと交替した。時差など関係なしに次つぎと飛来するのだから、ホテルもまた24時間体制だった。
 「うちも2交替制にして、1日中アメリカ人客の応対にあたりました」
 いまではアメリカ人の姿を見ることもあまりなくなったロビー横のレストランで、林加代子さんは語った。当時はまだ中学生だった彼女に詳細な記憶はなく、逸話はすべて創業者である父親から聞かされたものだ。ドルが溢れかえっていた60年代、それでひと儲けした人たちは口を揃えたように「復帰前はよかったなあ」と、いっときの夢をいまでも振り返る。
 「お客さんは大半が航空会社のシビリアン(文民)でしたが、軍のお偉いクラスの方もうちを利用されました。ベトナム戦争の頃は徴兵制ですから、軍人とはいっても態度はとても立派でしたね。ひどいのは、志願制になったその後ですよ。うちもそれでどれだけの目に遭ったか……それは後でお話しするとして、子供だった私の目から見ても、創業当時は華やかな時代でした。コザにはまだちゃんとした会社がありませんでしたから、うちは就職先としても憧れの的だったんですよ」
 英語ができることが採用の必須条件であり、当時の京都観光ホテルに勤めていた者は、マネジャーやフロントから、ウエイトレスやメイドまで、すべてが基地で働いた経歴の持ち主だった。沖縄ではエリートの職業といってよく、ホテルは一種のサロンの如き様相を呈していた。
 なかでも華やかだったのは、数多くの勲章を軍服に付けた本国からの将校でもなく、制服に身を包むパイロットでもなかった。すらりと背が高く、さらさらと流れる金髪を輝かせ、白く抜けるような肌をもったスチュワーデスたちに、ホテルの従業員たちは目を奪われた。
 「大和から有名女優さんも来られましたけど、うちの従業員たちは目が肥えていますからね。どれだけ綺麗でもまったく驚かないわけですよ。『あい、どんなにちゅらかーぎー(美人)かと思ったけれど、ずんぐりむっくりで色も黒いさ』なんて、フロントの奥でこっそり笑っていましたね」
 短い滞在を利用して、スチュワーデスたちはビーチへ肌を焼きに行った。その姿は、当然ながら基地に勤務する若い軍人たちも目にするわけだが、彼女たちはわざと裸体を見せつけておいて、軍人などまったく相手にはしなかった。そしてそのままオープンカーに乗って「ゲート通り」を行き、ビキニ姿でホテルに戻った。
 ロビーには石灯籠が置かれ、その奥が和風庭園になっているなど、異国情緒は満点だった。部屋もただ広いだけではなく、天井の高さまでアメリカン・サイズに設計され、大きめのベッドには浴衣が用意されていた。格を維持するためにホテル側は下級兵をいっさい立ち入らせず、もちろんパンパン(売春婦)の出入りも禁止だった。いきおい、京都観光ホテルの裏手には小さな連れこみ宿が乱立することになり、いまでもその名残りを留めている。
 かつては隆盛を極めたホテルに、僕は部屋を取った。ツインのベッドにゆったりとしたソファがひとつ、浴衣はいまでも用意されている。ラジオやアラーム、そして照明のスイッチが一体となったベッドサイド・テーブルは見たところアメリカ製で、エアコンの温度調節もできる。ヘッドボードを背にベッドに足を投げ出してみると、それを受けとめるスプリングの感触も、往年のアメリカ製のものだ。
 カーテンを開けて窓の向こうに目をやると、ゲート通りの先に嘉手納かでな基地の一部が見えた。そしてまさにその瞬間、戦闘機のイーグルが滑走路から飛び立っていった。コザの空はその音に包まれ、大きな雷のような音だけを残して、機体はすぐに視界から消えた。
 僕は基地へ向けていた視線を、すぐ下にある通りへと戻した。胡屋こや十字路を経て那覇方面へと向かう、国道330号線だ。片側3車線の広い道で、その沿道にはホテルや大型スーパー、飲食店が建ち並ぶなど、コザの一大商業地区となっている。杖をついてゆっくりと信号を渡るお婆さんと、彼女を心配そうに見守る高校生のカップルの様子が、僕の部屋から手に取るようにわかる。
 かつてこの道路で、コザに住む人たちの怒りが一気に爆発した夜があったことなど、いまではその面影もない。アメリカ人の車が80台近くも焼き討ちにされ、軍は鎮圧のために武装兵500人を繰り出した。投石や火炎瓶で抵抗したコザ住民の数は、アメリカ兵の10倍にあたる約5000人。1970年12月20日、車の燃える炎は未明まで消えることがなかった。
58_14.jpg 唐突に起こったコザ暴動の様子を、このホテルに泊まる客たちも怯えながら見ていた。創業者の諸見里勇はナイト・マネジャーから至急の連絡を受け、着の身着のままで首里の自宅を飛び出した。華やかな時代は一夜にして暗転、混乱の世相を迎える予兆だった。

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