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58号線の裏へ 駒沢敏器
第13回 週末の夜、コザでは
 週末の午後11時。
 コザの目抜き通りには、アメリカ兵たちの騒ぐ声が飛び交っている。ディスコから出てきたばかりのグループは意味のわからない雄叫びを空に発し、女はろれつのまわらない口で何かを言って、隣りにいる男にしなだれかかる。なかには立っていられない男もいて、膝を折りながらぐらぐらと2、3歩進んだかと思うと、そのまま歩道に崩れ落ちる。ちょうどそこには年老いた浮浪者がすわっており、酔った男は彼に英語で話しかける。
 浮浪者は、慣れた英語で会話の相手をしている。正体を半ば失ったアメリカ兵は人生について語り、質問めいたその言葉に浮浪者は回答のような返事を与える。深くうなずくアメリカ兵と、その様子をにやにやとしながら窺うもうひとりの浮浪者。アメリカ兵は立てていた膝さえ歩道に投げ出し、壁を背に横へ倒れこむ。地下のライヴハウスからはロックの生演奏がドア越しにあふれ、救急車のサイレン音はずっと鳴り止むことがない。ペイデイ(給料日)の金曜日、そのときばかりは賑わいを見せるコザの光景だ。
 コザの目抜き通りは「空港通り」と呼ばれる。嘉手納かでな基地のゲートに直結しているために、以前はゲート通りと呼ばれたのだが、基地の存在を直に意味する「ゲート」という言葉の代わりに、飛行場へと名称が変えられてしまった。そしてその飛行場からは、空を割るような轟音で戦闘機が飛び立つ。かつては朝鮮へ、60年代はベトナムへ、そして記憶に新しいところではイラクへと向かって。
 週末の夜になるとコザでは、ちょっと面白い光景を目にすることができる。歩道に並ぶ焼き鳥の屋台だ。屋根と椅子のある和風の屋台ではなく、バーベキュー用のグリルを立てて、串に刺した鳥を地元の人が炭火で焼いている。英語の表記は「BBQチキン、1本につき1ドル」。酔ったアメリカ兵たちはその匂いに誘われて、歩道で立ち食いをする。串にくらいつく時の無防備な表情は、もはや戦闘員のそれではなく、年端のいかぬ子供のようだ。
 「白と黒のどっちがフラーか、ゲート前の屋台で確かめたことがあったさ」
 コザに生まれ育った友人は、かつて僕に教えてくれた。彼の知人が嘉手納基地のゲート前でチキンの屋台を出しており、白人と黒人のどちらが馬鹿かを観察したというのだ。
 「黒は食べ終わった串を、ちゃんと串立てに戻してたさ。でも白は、食べ終わった後は串をただ投げ散らかすだけ。でーじゲレンよ(話にならない程の低脳だ)」
 コザは自分たちの街だとばかりに、酔った勢いで横暴に振舞うアメリカ兵(主に白人)と、その様子を冷ややかに見つめるコザ住民の視線は、復帰まえから変わることがない。シニカルな目で相手の正体を射抜きつつ、したたかな手段でアメリカ兵に金を落とさせることで、この街の人たちは生き抜いてきた。ある者はロック酒場を経営し、またある者はストリップ劇場で財産を築いた。ホテルを経営する事業家もいたし、離島から体を売りに来た女性も少なからずいた。
 軍人の数が最も膨れ上がったベトナム戦争当時、いつ死ぬとも知れない下級兵たちは使うあてのない金をコザで狂ったように落とした。人気のあるバーの経営者は、ドル紙幣でいっぱいになったズタ袋に、さらに紙幣を足で押しこむような状況だった。太平洋上の拠点となる基地があるということで、コザは戦争のあるたびに賑やかに拡大していった。基地と戦争によって生まれた街。ひとことで言うなら、コザはそういう場所だ。
 現在の嘉手納基地はもともと日本軍が建設したもので、「日本軍中飛行場」と呼ばれた。1945年4月に米軍はこの飛行場を占拠、日本本土へのさらなる攻略地点として、滑走路を拡張整備した。これによってB29爆撃機の、本土への飛来が容易となった。
 3650メートルの滑走路が2本並ぶ飛行場の周囲は、ヤマモモや柑橘類を産する農村地帯だった。日本が統治していた時代には、越来ごえく村と美里みさと村が併合されて「沖縄市」と呼ばれていた。しかしこれらの地区には、戦禍によって住処を追われた人びとの難民施設が戦後建てられたため、急激な人口増加によって新たに市制が布かれた。その結果、越来地区は古謝こじゃ市へ、美里地区は具志川地区と併合されて前原市へと名称を変えた。
 戦後処理が進んで帰村許可が下りると人口は激減し、古謝と美里はふたたび村制へと戻った。そして1950年に朝鮮戦争が勃発、嘉手納飛行場では基地建設がにわかに進み、越来村にはアメリカ兵や軍属相手の商店や飲食店が並ぶようになった。どの店も看板は英語だらけ、それに倣ったのかどうか、越来村は1956年7月1日、カタカナ表記の「コザ市」へと昇格した。名前の由来は現在でも中心地である「胡屋こや」とも言われているし、以前からの集落「古謝」とする説もある。
 いずれにせよ米軍が間違えた発音を、そのまま市名としたことだけは確かだ。これは一見、アメリカ人の発音を被支配者が屈辱的に受け入れたかのようにも映るが、僕にはそうは思えない。「あの辺一帯の歓楽街」を指す「コザ」という音が、一種のブロークン・イングリッシュとして、地元の沖縄人にも符丁のように広く流布していたのではないかと思うのだ。
 その真偽のほどは今となっては確かめようもないが、英語でも日本語でもない名前を持った街は、戦争に直面した運命と共に歩むことになる。そしてその運命を見つめ続け、自らも受け取ってきた1軒のホテルがある。
 「京都観光ホテル」。胡屋十字路にほど近い場所に建つ、コザでは最高級のホテルだ。
 現在のコザの街に、英語の看板はほとんど見当たらない。皮肉めいた言い方になるけれど、あえて英語の表記を見出すとすれば、「YEN ONLY」くらいのものだろうか。CoCoの回でも触れたことだが、基地のなかでは普段からドルを使っているアメリカ兵たちにとって、この表記は門前払いも同然だ。
 それが逆に災いしたのか、それとも市政の失敗なのか、以前は「BC通り」と呼ばれた元白人相手の歓楽街(現パークアベニュー)は、見るも無残なシャッター通りとなっている。アメリカ兵も沖縄の若い人も、客はみな嘉手納基地の西側にあたる北谷ちゃたんに取られてしまった。戦争のあるときはドルに依存し、90年代に日本で「沖縄ブーム」が始まるやいなや、臆面もなく大和へと客筋を鞍替えした結果、コザはその両方を失ったことになる。
 確かに、酔い始めたら何をしでかすかわからないアメリカ兵を相手に、いまさら商売をしたくもなかったのだろう。しかしその暴力性に辟易したのではなく、あくまでも大和に色目を使うことを前提にアメリカ兵を締め出したのだとしたら……つまりアメリカ兵を追い出した後にはその替わりに日本人が来てくれるだろうと高をくくっていたのだとしたら……コザの衰退は当然だ。混合した文化を売り物にする以外、この街は成り立ちからして他に方法などないからだ。
 「京都観光ホテル」は、そんなコザの街にいまでも威風堂々と聳え立っている。沖縄なのになぜか京都を冠した不思議な名前のホテルは、復帰まえの1967年にオープンした。創業者の諸見里もろみざと勇氏はそのとき48歳、現在の敷地がある胡屋十字路のほど近くで材木屋を営んでおり、あるとき儲け話を耳にした。アメリカから軍人を運んでくるのは民間機で、それに搭乗するパイロットや乗務員たちの泊まる場所が不足している、というのだ。
58_13.jpg 「だったらホテルをやろうということで、母の猛反対を押し切ってかなりの借金をしたようです」
 引退した父親のあとを継ぐ、長女の林加代子さんが当時の様子を振り返ってくれた。大阪の大学で英語を学んでいたために、否応なく家業に就かされたのだと彼女は苦笑いした。
 「オキナワなんていってもアメリカ人にはわからない。異国情緒でひと儲けするなら『京都』しかないだろうとの理由で、こんな名前になりました。それが奏功したのかどうかはわかりませんが、多額の借金を数年で返済できたくらいに、うちのホテルはアメリカ人たちで賑わいました……」

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