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58号線の裏へ 駒沢敏器
第9回 現代のバラック
 戦後ではなく、いまからほんの5年まえの話。
 沖縄の知人が娘さんを保育園に入れることになり、入園に必要な書類を手にした彼は、記入欄を見て驚いた。そこには現住所や両親の氏名・職業などだけではなく、「住居の形態」を問う欄があったというのだ。しかもそれは、一戸建てから始まって分譲マンション、借家、アパートなどを経て、最後に「バラック」にいたるまで、こと細かに分かれていた。入園するうえで、住居の形態の何がそんなに重要なのかとも思ったが、「バラック」という言葉が沖縄において現役として生きていることにまず、彼は驚いたようだ。
 もちろん現在の沖縄に、バラックなどありはしない。72年の復帰から数年を経てもなお、雨露をしのぐだけの家屋が残っていたということだが、いかに貧困であってもバラックをそのまま住居としている人は、いまはさすがにいない。だとすれば保育園の書類は、戦後から復帰数年後にいたるまでの、当時の沖縄をそのまま反映しているのだろう。貧富を問うのではなく、家庭の事情がいかなる状況なのか、家屋を訊くだけで窺い知ることができたのだ。そして園長や保母たちにとって、その情報は子供を預かり育てるうえで有用だったのに違いない。
 ひと口にバラックといっても、そのつくりは千差万別だった。ほとんど無料で手に入る廃材などを利用して、素人がその場しのぎでつくるのだから、決まった型があるはずもない。しかし米軍基地でコンクリート・ブロック(CB)の製造に携わっていた者が、手作業で粗雑なCBを模倣製造するようになってからは、バラックにもある一定のスタイルが見られるようになった。わずかな鉄筋だけをCBに通して柱ないしは壁とし、そこへトタンを乗せただけの家屋だ。これがその後取り壊されて、いわゆる「スラブヤー」へと進化してゆく過程は、以前に紹介したとおりだ。
 このバラックに想いを馳せ、いまの時代に甦らせた人物がいる。建築家の中村博史だ。彼の両親は、戦前は肥沃な農地として知られた北谷ちゃたんの海岸部に住んでいた。しかしこの土地がキャンプ瑞慶覧ずけらんと58号線(当時は軍用1号線)をはさんで隣接し、広く平坦であることを理由に、飛行場用地として米軍に接収されてしまった。戦争終結から3年後、1948年のことだ。
 土地を奪われた地主たちは、馴染みのない土地へ追われて、そこに住むことになった。ゼロからのスタートなのだから、住まいは当然ながらバラックだった。粗末なブロックを彼らは自分たちの手で積み上げ、集めてきたトタンを苦心してそこに乗せた。丹精につくったつもりでも、隙間ができることもあり、子供たちは夏の太陽の動きを、その隙間を通して感じた。台風のときには雨水が漏れ、空き缶などでそれを受けなければならなかった。24年後に沖縄が日本に復帰するとは、当時は考えもつかないことだった。
 その復帰から約10年、1981年に「ハンビー」と呼ばれた北谷の飛行場は、全面的に返還されることになった。ブルドーザーが入って滑走路を引き剥がし、基地は跡形もない更地へ変わり、区画整理の終わった「生まりジマ」(自分の土地)に、約240人の地主たちはようやく戻ってきた。そのとき中村氏は親兄弟3世帯による住宅を提案し、両親の世代への敬意をこめて、あえて「バラック」を再現することにした。
58_9a.jpg58_9b.jpg58_9c.jpg 基本的な素材は沖縄で自給できるCBとし、屋根は排水管などに用いられることの多いコルゲートパイプを選んだ。これは鋼板に波型をつけたもので、トタン板を頑丈にしたものと思っていいだろう。床材もすべて中古品、壁などにはあえて隙間を残した。なかにいるとその隙間から洩れてくる陽光を見ることができるし、季節風を感じることもできる。2階に上がる階段は廃材と鉄パイプの手すりのみ、まるで建築の工事現場にいるようだ。竣工から10年を経ているが、「バラックなので、いまだに完成途上にある」という。「2年間だけ名古屋に出ていて、沖縄に戻ってきたときに『ここはブロックだらけだったんだな』と、改めて思いました」と中村氏は語る。
「しかしそれで沖縄をどう表現しよう、という気負いはありませんでした。それよりも、両親たちが戦後過ごしてきた時間へのウムイ(想い)が改めて感じられ、手で積み上げるということを意識してみたくなったんです。昔から身近にある、規格品でしかないCBを、自分ならどう組むか。そんなことを通して、両親に感謝の気持ちを表したかったのかもしれません」
 彼の自宅にいて感じるのは、おおらかさと力強さだ。「どうせいつか気が変わるし、子供たちの成長に伴ってライフスタイルも変化していくのだから」と、途中で施工の手を止めてしまったような印象が随所に感じられ、それがむしろ居心地のよさを与えている。デザインを押しつけられるような窮屈な感じがせず、のびやかで心地いい。「いまはこれで間に合わせておこう」という仮の猶予のようなものを持たせ、気が向いたら次のことを考える余地が残されている。まさに現代のバラックと言っていい。
 もちろんそれもプロの計算があってのことだが、ものを完成させてしまうことへの生理的な嫌悪感のようなものを、何よりも僕はこの家と彼自身に感じた。そんな感想を中村氏に向けると、彼はその返答に言葉を与えることさえためらうような面持ちで、「偶然を発見するのが面白いんですよ」と、ぼそっと言った。
「いまでもその辺を歩いていると、素人の積んだCBが気になります。陽があたっていると影のかたちがいびつに出るので、すぐにわかるんです。そういうのを見ると、次はこれを自分でもやってみよう、と思うんですね」
 実のところ、CBの本場である沖縄でも、そのCBを用いないごく一般的な住まいが増えてきている。以前のようにゴツゴツとした感触はなくなり、本土の住宅と同じような、妙に小ぎれいで平凡な仕上がりの家が目立ち始めた。それはアメリカを受け入れざるを得なかった沖縄が、今度は日本を受け入れるしかないことを、そのまま物語っているのだろう。
 数えるほどしか沖縄へ行かない自分でも、訪れるたびに風景が本土に似てくるのを見ると、どこか落ち着かない気持ちになる。アメリカから受けた影響をしたたかに呑みこみ、それを自分たちなりに変形させた独自性を、現在の在りようにも投影させてほしいと思う。アメリカとのあいだには生々しい混合ぶりが見られ、それが住居にも音楽にも反映されたが、日本とのあいだにはそのような齟齬や葛藤が、なぜか見られない。沖縄風に強烈にバイアスがかかったものは急速に少なくなってきており、普通の日本化が進んでいる。
 その意味では、デザインはあくまでも個性豊かで近代的でありながら、設計の発想は「バラック」という過去(あるいは原点)へ戻した中村氏の住居は、あるひとつの正解を指し示していると思う。自分たちはどこから来たのか、なぜCBを用いるのか。その問いかけを引き継ぎながら、あくまでも新しいものを彼はつくった。そこに生きているのは、かたちにはならないけれど、曖昧なまま色濃く伝承されてゆく沖縄の気配そのものだ。
 アメリカ南部の、とあるブルースマンは言った。「ブルースなんて、変化することのない、しみったれた音楽だ」(クラレンス・ゲイトマウス・ブラウン)
 定型化した古いままの音楽を彼は嫌い、カントリーやジャズなどの要素を、自分なりに豊かに取りこんでいった。しかしそれでも、彼の演奏はブルースに聞こえる。もともと自分のなかに流れているものは消すことができないし、何が流れているのかを知るには、異なったものとの出逢いも必要なのだろう。
 ものを混ぜ合わせたときにこそ、沖縄はらしさを発揮する。混ぜれば混ぜるほど、もともとそこにあったものが、やがて屹立してくる。コンクリート・ブロックもまた、見よう見まねから始まり、見事な造形物へと進化・増殖していった。素人の積んだブロックの不揃いさにはブルースがあり、アメリカの軍隊がもたらしたほんの小さな物資のひとつにも、その息遣いは現れているのだった。

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