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58号線の裏へ 駒沢敏器
第7回 石の箱から家をつくる
 アメリカが沖縄に持ちこんだコンクリート・ブロック(CB)が、どのような過程を経ていつ民間へ広まっていったのか、実のところ正確な記録は残されていない。一方的に接収された土地に軍の施設や基地が建てられ、見たこともない美しい芝が植えられ、そして真っ白なペンキで塗られた住宅(外人住宅と呼ばれる)が次つぎと増えてゆくさまを、沖縄の人はフェンスの外からただ指をくわえて見ているしかなかったからだ。ましてそれがコンクリート・ブロックという資材で建てられていることなど、知る由もなかった。
 基地内に建設されたCBの製造工場は、主に日本の建設会社が下請けとして業務にあたっていた。そしてほどなくして民間人の雇用が始まり、沖縄の人は初めてCBと間近に対面することになった。「ブロック・マシン」と呼ばれる大きな機械があり、オートメーション化されているために、簡単な説明を受ければ誰でも作業にあたることができた。ここで腕を磨くとか、CB製造のための技術を身に着けるといったようなことは、最初から期待しても意味のないことだった。それは単なる流れ作業でしかなく、したがって記録に残すような内容を伴ってはいなかった。米軍の公文書をあたれば雇用がいつから始まった、ということくらいはわかるかもしれないが、このような実態であったために、沖縄の民間にもCBに関する記録は何ら残されることはなかった。
 単なる労働者なので砂の種類やセメントとの配合を知らされることもなく、彼らはただ「砂やぐり石(砂利)とセメントを混ぜ、水を入れると石のように固まる」という基本的な知識だけを手に入れた。前回でも触れたように、この点で沖縄には有利な条件があった。砂やぐり石の素材である石灰岩ならば、周囲にいくらでもころがっているのだ。また、琉球石灰岩はカルシウム分(珊瑚やプランクトンの死骸、珪藻類など)に富み、セメントの主原料としても適していた。労働のために日にいちど基地の中に入っていた彼らは、外人住宅の美しさと堅牢さを目にしてはため息をついて憧れ、CBの機械がなくとも似たようなものならつくれるのではないか、と思い始めた。
 ところが沖縄の言葉でいう「ジョートー」(立派、良質)な石や砂は米軍に独占されており、それを使わないと基地で目にしていたようなCBはつくれないことを、彼らは知ることになった。たとえば、玉城たまぐすく村にある「琉球ゴルフ倶楽部」は、米軍政府の跡地だが、そこから道を隔てたすぐの場所にある「玉城城跡」は、今も無残な姿をさらしている。このぐすくはもともと3重のくるわで囲まれていたのだが、米軍がCBをつくる際に骨材(砂やぐり石)の材料として二の郭と三の郭の石灰岩を完全に崩壊させてしまい、足元はまるで瓦礫のようになっている。
 それでも沖縄の人たちは、茅葺の家よりはいいだろうということで、見よう見まねでCBの製造を始めた。完全な家内制手工業であり、粗い海砂を利用したCBは、アメリカのものに比べるとはるかに粗雑で脆かった。型を置いてそこへコンクリートを流しこみ、2本の柄がついた木型を使って両手で圧縮するのだが、工場によって高さがまちまちだった。圧縮する者の腕力によってサイズが変わる上、手で叩いて空気を抜いていたために、乾燥させてみると高さが1㎝以上もずれてしまっていた。
 何もかもがコンクリートになっていく当時の様子を、小学6年生だった大城一男氏(68)は、はっきりと覚えている。
「玉城の米軍基地を見ていると、石から箱をつくってそれで家を建てているなあ、と思いました」
 沖縄でも最大手で、良質なCBを生産することで名高い「大城ブロック」の会長を務める彼は、資料もなく記憶に頼るしかないのですが、と前置きしたうえで話を始めた。
「1955年くらい、いまからもう50年も昔のことですから、基地に作業で入っていた先輩たちはほとんどの方が亡くなっています。玉城城跡から採石しているのは知っていましたが、いくら聖地とはいえ戦後は米軍の勝手ですから、役場も見てみぬふりをするしかなかったでしょう。そんなときでしたか、高等弁務官から弁務官資金というものが下りましてね、私の通っていた玉城の小学校を、コンクリートで建て替えることになりました。生徒が石を割ってぐり石をつくりましてですね、海のそばに住む同級生は、こんなにたくさん石をかついで、学校に持ってきよったですよ」
 校庭の片隅には石を集めておく場所があり、そこへひとつでも多く石を持っていくと、先生が誉めてくれた。それが嬉しくて大城氏もせっせと石を運び、皆でハンマーを手に叩いて割った。そして県最初のコンクリート造の建築物ができ58_7a.jpgあがった。
「公民館も弁務官資金でつくりました。建築家などというものは当時の沖縄にはいなくて、米軍の施工を見て真似るだけです。建築基準法も何もない。その辺にある石を拾って割るところから、戦後沖縄の建築は始まったんです」
 民家もまた、台風で茅葺の屋根が飛ばされるたびに、CBのものへと変わっていった。大城氏によると「つくればつくるだけ出ていき、台風の後は注文が多くて足りなくなった」ということだ。このとき建てられた民家は、いわゆる「スラブヤー」ではなく、鉄筋の数が現在の半分もない、間に合わせのものだった。先述したように粗悪品でサイズもばらばら、砕石がいい加減で珊瑚の枝がそのまま残っているCBもあった。壊れさえしなければそれでいい、という建て方で、台風のたびに「元祖スラブヤー」は窓などの開口部が小さくなっていったという。
 50年代後半当時で、沖縄本島におけるCB工場の数はおよそ180社。つくる一方から売れていくし、質など求められていないのだから、安易なひと儲けを目論んで工場が乱立するのも無理はなかった。家内工業なので工場ひとつにつき従業員は4?5名程度、手動による一日の生産数は200個が限界だった。
「それでもまた台風が来るとなると、我先にと争って前金を入れる人まで現れたもんです」と、大城さんは語る。
「普通のサイズの民家というと20?30坪ですが、これに必要なCBの数はだいたい800?1000個。一日200でやっているのですから、前金をもらっても生産がまったく間に合わないわけです。なのに値段は1個15セント。タバコ1箱分くらいのもので、数を売らないと話にならない。競争力のないところや粗悪品を出していた工場は、自然に淘汰されていきました」
 60年代に入るとCB工場の数はおおよそ半分にまで減り、質の向上と生産の効率化が新たに始まった。各社とも日本本土を訪ねてまわり、圧縮は機械、搬出は手動の「半自動機械」の導入に着手した。無理をすればアメリカ製の全自動を買えなくもなかったが、結局は製品の値段に反映してしまうために、手を出すことができなかった。大城ブロックの場合は九州のとある業者から半自動式機械を購入、1日の製造数は500個まで倍増した。
「しかしそれでも、まだ間に合わない。次から次へとCBの民家へ建て替えが進んでいくのですから、まったく寝る暇もない」
 若いから無理もできたんだろうなあ、と懐かしそうな笑顔を、大城氏は横にいる工場長に向けた。「ですから人を増やして、機械を動かし続けるしかないわけです。朝から晩まで、ようやったもんだと思いますよ」
「機械がCBを圧縮するときの音っていうのは、普通の人が聞くとうるさいだけです」
 それまであまり口を利くことのなかった工場長が、静かに言った。「しかし僕らは、その音でわかるんです。いいものができているか、どうか」
58_7b.jpg「そうそう、『いい音出とるかー?』って、電話でそんな話ばかりだったな」
「音に無駄がないときはですね、均一に圧縮されたいいCBができるんです。あれは一種の生き物みたいなものです」

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