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58号線の裏へ 駒沢敏器
第5回 ゴツゴツした街の生命力
 沖縄へ行くようになって早くから気がついたのは、「街がやたらとゴツゴツとして見える」ということだった。建築物のサイズや形状が揃っていないとか、住居がひしめきあっているとか、単にそういうことではない。車を運転していても、タクシーに乗ったままぼんやりと車窓の外を見ていても、街の風景に妙な「せり出し感」があり、それがこちらを圧迫してくるのだ。不揃いの直方体をゴツゴツと乱雑に積み上げたような印象があって、ある種の力強ささえそこには感じられた。
 僕などは横浜郊外の「ツルツル」とした街に住んでいるので、沖縄のこの風景に慣れるまでは正直言って疲れた。静物画を観たあとでピカソのキュビズム彫刻にたくさん出くわしたような感じ、といったら大げさすぎるだろうか。とにかく獰猛で生々しくて、その造形は原始的な生のパワーを放出しているようにも見えるのだ。しかも冬でもないかぎり、街は夜になってもむんむんとしている。ここは小奇麗な日本の最南端というよりも、東南アジアへの入り口なのだなあ、と実感するよりなかった。
 ちなみにまったくの余談だが、「国際ゴキブリ品評会」なるものが毎年ニューヨークで開催されているらしく、沖縄から出品された代表選手は2年連続で優勝をはたしたそうだ。色、形、大きさ、ツヤ、力強さなどすべての評価部門において、ダントツの優秀さは他国の追随を許さなかったということだ(その後沖縄の選手はあまりの強さに出場を認められなくなり、名誉扱いとして永久殿堂入りとなった、という噂まである)。
 ところでなぜ街がそんなにゴツゴツとしているのか、実のところその原因は、呆気ないくらい明快なところにある。58_5a.jpgどこを見渡しても「コンクリートブロック」(以降CBと略す)だらけなのだ。
 たとえば商業店舗のファサード(正面の外壁)は、無数の「花ブロック」が積み上げられている。花ブロックとはCBの枠を残したまま中央を花型にくり抜いたもので、暑い陽射しをさえぎったり、風を通したりする役目をはたしている。1個だけならどうということもないけれど、何百個も連続して平面状に積まれると、力強い美しさがパターンとなって生まれる。ましてビル一面もの大きさに同じ型の花ブロックが並ぶとなれば、かなり圧巻だ。
 街を裏道に入って住居の並ぶ地区を歩いても、目に入るものはほとんどがCBだ。塀にはCBがごりごりと積まれ、なかには明らかに経費節約のために住人が自分で積んだと思われるものもあり、その不揃いないい加減さは見る者を「はっ」とさせる。もう少していねいにやればできただろうに、綺麗に積むということに関心がないらしい。お金が尽きてしまったのか、それともやる気が失せたのか、途中で積むのをやめて、まるで型の違うCBを積み足している家さえある。
 家屋の外壁も、もちろんCB。鉄筋をコンクリートで固めて柱とし(ラーメン構造と呼ばれる)、あとはCBを積み重ねていっただけの家屋が大半だ。平らな屋上部分のスラブ(コンクリートの板)に柱がそのまま突き出している家もあり、これを「つの出し住宅」と呼ぶのだと聞いたときは、そのストレートなネーミング・センスに感嘆してしまった。
 この、ラーメン構造にCBの外壁というスタイルは、沖縄では完全に一般化しており、「スラブヤー」と呼ばれている。これは琉球赤瓦を屋根に用いた戦前の沖縄の民家を「カワラヤー」と呼んだことに対応している。
 72年の復帰直前に沖縄を訪れ、日本にはない民家が建ち並ぶ光景を目の当たりにした建築家・越智史郎氏は、以来その衝撃につかまったまま、日本には帰らずにコンクリートの建築にこだわり続けている人物だ。
「ひと目見て、その新鮮さと力強さに感銘を受けました」
 パスポートで沖縄に渡った33年前の印象を、彼はそう語る。「ざらついたような感触と、何ともいえない統一感。都市部にはほとんどカワラヤーが残っておらず、道は砂利道、民家の大半はスラブヤーでした。どの家も同じ工法で、それが風景にも反映されて統一感が生まれていた。目を見開かれた思いがして、自分ならCBでどう表現しようか、と夢中になりました」
 強く美しいCB民家だが、はたしてそれを「意匠」と言っていいのかどうか、そこには疑問も残る。というのも、戦後になって一気に普及したスラブヤーは、まずは徹底した合理性から生まれているからだ。
 ひとつには、建材としては圧倒的に安価であること。施工もいたって簡単で、柱の内側に沿ってブロックを積み重ねていくだけだ。この工法だと部屋のなかに柱や梁が出ることがなく、腕の未熟だった沖縄の大工でも容易にてがけることができた。重く頑丈なために、台風で屋根や瓦を飛ばされる心配もなかった。戦争直後のバラック時代をようやく脱した沖縄の庶民にとって、CBはまさに理想的なものであり、彼らは住まいをこぞってスラブヤーにした。大工は同じものしかつくることができず、個性とか意匠などというものは、そこには皆無だった。
 しかしその結果、思いがけず風景に統一感が生まれ、似たような家がいくつも並ぶことで連続性も現れた。ところがそれではさすがに飽き足らなくなったのか、社会が少しずつ豊かになるにつれて、そこには変化が現れた。CBに慣れた大工が住人の要請を受けて、58_5b.jpgちょっとした工夫を加えるようになったのだ。平らな屋上が空いているのでバーベキューやゴーヤー菜園に使いたいと言われ、あとから強引に階段を外付けした。そうなると屋上には手すりが必要になり、花ブロックが思い思いに用いられた。
 あるいは家屋を2階に上げ、コンクリート柱だけとなった1階部分を、風通しや駐車場として利用する家も現れた。この利用法は建築用語では「ピロティ」と呼ばれているが、当の住人や大工たちは、そのような言葉など知らなかったのではないか。ピロティのある建築を提唱したル・コルビジェが、沖縄にひしめくスラブヤーを目にしたらいったいどのような感想を漏らしたか、是非聞いてみたかったものだ。
 このように形状や大きさのバリエーションを加えながら、いつしか沖縄の風景は、まさにジャングルジムのように立体化していくことになった。庶民たちは何も意図せずに合理性のみで家屋を増改築し、大工は見てくれなど関係なく、言われるがままに機能だけをあと付けした。そしてスラブヤーが建ち並ぶ統一感のなかに、生のエネルギーがうごめき始めた。生きていこうとする力、堅牢でラフなままの在り方、美しく見せようとはしない、いい加減さやだらしなさと紙一重の大雑把な潔さ。集落の道は戦前から細く曲がりくねったまま何も整備されることなく、それでも奥へ上へとのびていったCBの塊は、まさにそれだけで生き物のようだ。見慣れない者がいちどにたくさん見たら、疲れるのも当然なのかもしれない。
 ここに投影されているものは、アメリカを脇に置きながら自分たちの復活を果たさざるを得なかった、沖縄の人たちのしたたかな柔軟性なのだと僕は思う。というのも、ここまで広く隅々にまで普及したCBは、もともとは支配者である米軍が、戦後の沖縄に持ちこんだ物資だからだ。
 木材に乏しく台風の多い沖縄にあって、米軍は大量の兵舎を短期間に建設するために、海砂に着目した。これならば現地での調達がいくらでも可能だし、セメントで固めればCBを大量生産することができる。強固で耐水性にもすぐれ、工法もいたって簡便だ。そこで米軍は基地内にCB工場を建設し、下級兵を製造にあたらせた。やがてその労働力はより安価で雇うことができる沖縄人に求められ、戦後で職のなかった彼らは、飛びつくように雇用に応じた。
 その後CBの製造は民間に委託されることになり、基地の外へ出て沖縄の社会へ急速に融けこんでいった。アメリカがもたらした物資を、沖縄の人びとが自分たち独自の発想で応用するようになる瞬間だった。
 自分たちが用いたCBという簡素な建材を、まさかここまで急速に、そして自由奔放に使いこなすとは、当の米軍も思わなかったのではないか。高度経済成長期の日本がチャラチャラとアメリカの真似をしているときに、沖縄はその辺にある使い捨てのような安価なブロックを用いることで、家からビルまで何でもつくってしまったのだ。その結果、沖縄における非木造建築物比率は実に9割を超えている。「コンクリート・ブロックの街」と言っても、差し支えない数字だ。
 いまやCBは単に建材であることをやめ、あらゆる場面に応用されている。あるときはペンキを塗られて表札の代わりとなり、中をくり貫かれて植物の鉢にされることもある。神聖なはずの御拝所うがんじょだというのに、風化した石の代用品としてブロックを香台として置いている場所もある。僕が目撃したなかでも最も強烈だったのは、牧志の公設市場にある豆腐屋の光景だ。大きな島豆腐が木型ごと台の上に載せられ、店の主人はそこへ、こともなげにブロックをひとつ置いて水抜きを始めたのだった。

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