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58号線の裏へ 駒沢敏器
第4回 アメリカ人の見ていた海
 創業から遡ること約10年、当時はまだ16歳だった稲嶺は、何とかして兵隊と仲良くなろうと画策していた。育ち盛りなのに食べるものはほとんどなく、基地外の食料配給売店では、わずかな小麦粉や缶詰しか手に入らないからだ。しかし兵隊とのコネを手にして基地へもぐりこんでしまえば、食べ物は溢れるほどある。お腹をいっぱいにするには自分でアイデアを考えるより他になく、血気盛んな少年たちは、我先にと争うように基地のなかへ入りこむきっかけを狙っていた。同世代の仲間たちに出し抜かれるわけにはいかない稲嶺も、誰よりも先にニックネームが欲しかった。本名を呼ばれずにニックネームを付けられるのは決して屈辱的なことではなく、むしろ誇らしさを伴った「生活の知恵」だった。
 やがて彼はドライバーの仕事を得て、英語もめきめきと上達していった。そしてジミーという名で呼ばれるようになる。米兵はジミーを気安く呼んでは煙草を与え、帰りに缶詰をもたせた。「ポーク・ランチョンミート」を初めて見たのもその頃だ。豚肉をラードで固めただけの、戦地での非常食でしかないが、こんなご馳走は世の中にないと思った。まして缶詰に入ったケーキがあることなど、考えてみたこともなかった。ケーキそのものが珍しい時代だった。一部の上層階級を除いては、ケーキを口にしていた者など戦前の沖縄にはいなかった。
 小間使いやドライバーをこなしながら、ジミーは基地内の食堂(メスホール)に職を得ることができた。食べ物は信じられないほど余っており、ステーキの残飯を彼は家に持ち帰った。調理場では毎日パンが焼かれ、その香ばしさと美味しさに、天と地ほどの違いを感じた。勝った国と負けた国とではこうも違うのか、と彼は思い知らされた。その「負けた国」日本は、いまはもう沖縄にはいなくなっていた。日本はGHQが撤退したあとに国家としての主権を取り戻したが、アメリカの統治下にある沖縄は植民地のままだった。
 終戦直後に米軍と何らかの関係を得て、それを基盤に自営業を発展させる過程は日本にも多く見られたが、植民地の沖縄では、従属のなかから独立をはたすしかなかった。簡潔に言えば、居坐る米軍をどのように逆利用するか。そのひとつの方法が、たとえば兵士に体を売った見返りにバッグをドル紙幣で膨らませていたパンパンであるかもしれない。地元民から蔑まれはしたが、彼女たちもアメリカに隷属したりぶらさがったりせずに、アメリカとの生の関係の内部から、自分にとって有利な条件を引き出して生きようとしていた。軍を相手に自ら活路をひらくことが、自立の路だった。
 ジミー稲嶺の場合はどうしたか。
 彼はパンやパイを何とか事業化したいと考え、メスホールのベーカリーで働いていた兵士たちを雇った。彼らだって、日がな一日基地のなかにいて、パンばかり焼いていたくはないだろう。給料にも限りがあるし、小遣いだって欲しいに決まっている。
 はたしてジミーの提案を彼らは受け入れた。自分では調理できなかった彼は、兵士たちのパンづくりの技術を、地元の人たちに学ばせた。現在でもジミーのパイが大きくてどこか野暮ったいのは、このときの米兵じこみの名残だ。
 いまにして思えば、兵士のつくるものなのだから、パイは大味でひどく甘かった。しかしただ甘いだけで豊かな気持ちがして、クリスマスには信じられないほどの注文が入った。58_4a.jpgやがてジミーのパイやケーキは沖縄で一世を風靡し、60年代には栄華を極めた。普天間基地を擁する大山界隈には「外人住宅」が建ち並び、そこに住むアメリカ人やハワイから来た日系人はジミーの常連となった。幼少期の南沙織も、そのうちのひとりであったのだろう。味にしろ物資にしろ、当時の沖縄はアメリカのもので溢れていた。
「当時の空気のようなものは、〈破片〉のように残ってはいますね」
 二代目社長を務める稲嶺盛一郎は、父親の話を語り終えたあとに言った。
「いまでは沖縄もすっかり日本化してしまいましたが、復帰まではまさにアメリカ世でした。おそらくはアメリカの影響はさらに薄れて、より日本化されていくのだと思います。ジミーとしてのアメリカ臭をいい意味で残しながら、それにどう対応していくか、今後のうちはそこを問われていくことになるでしょうね……」
 72年の日本復帰は、天変地異のようだった。右側を走っていた車は左側を走るようになり、自由貿易から関税貿易となったために物資の流れが変わった。人的交流にも本質的な変化が訪れた。国費・自費制度で日本に留学していた人たちが沖縄に戻り、指導者としての彼らは日本に倣うことを優先させた。そして沖縄の民間人とアメリカの兵士たちの交流は、坂を転がり落ちるように激減の一途をたどった。
 アメリカとの人的接点が薄れ、商業を基盤とした文化がいやがうえにも日本化していくのだとしたら、それでもなお動くことのない基地の存在は、本当に軍事基地でしかなくなる。以前なら週末やペイデイに沖縄の町へ遊びに出ていた兵士たちも、現在では基地のなかにこもりきりだ。駐在期間も約2年間と短くなり、多くの若い兵士やその家族たちは、自分たちが赴任した沖縄そのものに関心を示さない。そこから何かが自動発生的に生まれるということは、もはやないのだろうか。
 大山のジミー1号店の裏側、普天間の斜面にいまも残る外人住宅を見に行った。小さな住居でも庭を含めて100坪、大きいものになると200坪もの敷地を持つ住宅が、数ブロック四方の範囲に並んでいる。堂々としたがじゅまるの古木がそこかしこに残され、庭や小径に涼しい陰をつくりだしている。この斜面を上がった場所に広大な飛行場があるとは、にわかには信じがたい落ち着いた集落だ。いまでは外国人はほとんど残っておらず、集落の最奥にある邸宅は、レストランなどとして利用されている。
 現在のジミーのアップルパイは、アメリカの味そのものではない。幾度かのアレンジが試みられ、そのたびにアメリカの風味は薄められた。歯が浮くほどの甘いオリジナルを食べてみたい、と僕はふと思ったが、いまではもう叶わない夢だ。フランス帰りのパティシエならまずこうはしないだろうという、原色まみれのケーキのデザインに、はっきりと名残のあるのが救いではある。
「変えていいものと、変えてはいけないものがある」と、稲嶺盛一郎氏は言った。「食にも流行というものがありますが、それだけで動くわけにはいかない。パイのファンをたくさん抱えているので、どうしても変えられないところもあるのです」
 外人住宅の集落を隅から隅まで歩き、ジミーに停めてある車に戻ろうとした。そして上がってきた斜面をふと振り返ると、思わぬ光景が目に入った。そういうことだったのか、と僕は思った。
 眼下にジミーの店舗があり、その先に58号線が走り、あとははるか遠くまで東シナ海がひろがっていた。沿線に背の高いビルが建っているために、いまはその全貌はところどころ遮断されているが、復帰以前は海原の視界を遮るものはひとつもなかっただろう。
58_4b.jpg そこは海を見わたすことのできる、絶景のビューを持つ斜面だった。見おろしたり見わたしたりするのが好きなアメリカ人が、この丘に目を付けるのは当然だった。沖縄人が地べたに密集していたその一方で、アメリカ人たちは高台の広大な家屋から、かくも美しい海の眺めを優雅に独占していたのだった。

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