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58号線の裏へ 駒沢敏器
第3回 憧れのニックネーム
 58号線を那覇から北へ上がる。空港でジミーのパイを初めて見たときから、この道を何度行き来したか知れない。港のあるとまりから上り坂になり、頂上の天久あまくより右手にひろがる地域は「那覇新都心」と呼ばれている。大手のスーパーやチェーン型の飲食店などが新興住宅地に建ち並び、光景は東京や横浜の郊外を不器用に模倣したかのようだ。那覇に通勤する若い世代の夫婦には好評とのことだが、米軍が返還した広い土地をなぜこうも凡庸な光景につくりかえてしまったのか、僕にはその意図がわからない。
 以前この地域は「マキナト・ハウジング・エリア」と呼ばれていた。1953年に米軍が住宅地として強制接収し、1181戸の住宅と学校を建設した。当時の様子は公開されている航空写真によって見ることができるが、丘の斜面や起伏などの地形をうまく利用した、いかにも居心地のよさそうなレイアウトだ。まっすぐな道路はほとんどなく、植樹された森を縫うドライブウェイの数かずは、果実を取り去ったあとの葡萄の枝を連想させる。この道を自動車で走ったなら、勾配の角度やカーブの大小によって、風景はごく自然にいくつもの表情を見せてくれたことだろう。
 沖縄の地形を戦前から残すこの場所を、整備公団はまったく意味のない光景につくりかえてしまった。全面返還された1987年から5年後に工事に着手、豊かな起伏は削り取られて更地となった。工事用の大型ダンプを通すための主幹道路をまず最初につくり、あとは都合によって格子状の道を追加しただけであることが、誰の目にも明らかだ。アメリカから返還されたものを、今後の自分たちのためにどう利用しなおすか、沖縄の出した回答のひとつがこれだとするなら、土地は返還されない方がいいのではないか、とさえ思う。付け焼刃という表現が相応しくなければ、場当たり主義でもいい。何のビジョンも打ち立てないまま、計画だけが優先された結果がここにある。
 ここから58号線は下り坂となり、左手に「キャンプ・キンザー」が見えてくるあたりで、ほぼ平坦な道のりとなる。そして屋富祖やふその交差点から先が、いよいよ「ゴッパチ」らしさの本領発揮だ。天久が現在の日本をそのまま沖縄の地に置き換えただけの場所であるとするなら、屋富祖から嘉手納にいたる沿線にはアメリカとの愛憎半ばする歴史が投影されている。
 たとえば城間の交差点の脇には、「ピザハウス」というレストランがある。南欧風の建物は旧米国総領事館を88年に改装したもので、元は大山という場所にあった。「ジミー1号店」の向かい側だ。開業は58年、将校クラブで日本人支配人を務めていた伊田耕三(徳之島出身)は嘉手納基地の司令官に見こまれ、九州を出て統治下にあった沖縄行きを決心する。しかしパスポート申請に手間取るあいだに、頼みの司令官は退官してしまう。伊田はやむなくアメリカ人経営の料理店で働くしかなくなり、その後自分の店を出すことになる。
 メニューは、当時は目新しかったピザが中心で、週末になるとアメリカ人と地元の客が列をつくった。支配人時代から彼は「ジミー」と呼ばれ、現在でも地元の年配者からはその名前で呼ばれている。
 これは沖縄では特に珍しいことではなく、たとえば南部の玉城村にある、ブルーベリー・パイが人気の店「チャーリー・レストラン」も、ニックネームをそのまま店名としたものだ。本名は山入端やまのは宏正といい、基地内のレストランでコック長を務めていた。彼らのように、基地内もしくは関連施設で働いていた「軍作業上がり」は兵隊からアメリカ人のニックネームを与えられ、「ジミー」を創業した稲嶺盛保もその例外ではなかった。
「ピザハウス」を左手に見ながら、58号線は牧港で高架橋を上がる。するとその頂点で、右手に「A&W」が見える。開店した69年当時そのままの様子がいまでも残り、駐車場に車をつけると、運転席側にメニューと古いマイクがある。現在の「ドライヴスルー」ではなく、車を降りずに注文をして届けてくれるのを待つ、当時の「ドライヴイン」のスタイルだ。夜空に浮かび上がるバタ臭いデザインのネオンは沖縄の子供たちにとっては憧れであり、ルートビアの味は永遠の思い出だ。コザで生まれ育った音楽家、普久原朝教(ローリー)はその想いをこのように歌っている。
「パパにねだったチーズバーガーはあの日のまま/ママが好きだったルートビアもあの日のまま/芝生の上でねころんでさえ/南風は優しかったね」(週末はA&Wで)
 古いアメリカ映画の書割のようなA&Wをあとにして、58号線の右手には丘の斜面がひろがる。斜面をあがった先は、広大な普天間基地だ。ここからキャンプ瑞慶覧ずけらんやキャンプ桑江を経て嘉手納基地まで、沖縄中部の西側半分はその大半を基地に占拠されている。58_3a.jpgしたがって58号線の沿線にも、英語の看板を掲げた店舗が目立つようになる。軍の放出品を売る店や中古の家具屋、かつては連れこみとして利用されていたはずの小さなホテルなどが並び、その中心地といっていい場所に、創業した56年から「ジミー」がある。
 アップルパイを始めとした、ペーストリー類に特化した店舗展開を進めている「ジミー」だが、この1号店にはレストランが併設され、いまでもキャンベルの缶詰や米国製の洗濯用洗剤などが棚にぎっしりと並んでいる。「ジミーグロセリー」という雑貨屋から出発した原点を、忘れないようにするためだ。
58_3b.jpg「ジミー」は最初、「まちやーぐゎ」から始まった。いまの沖縄にもわずかに残る、粗末なつくりの雑貨屋だ。焼け野原に自前のテントを張って生活していたような終戦直後、ジミー稲嶺はまちやーぐゎの狭い店内に何でもかんでも置いて売った。拾ったものでも、あるいは基地で盗んできた「戦果」でも、置けば何でも売れる時代だった。そして50年代に入ると、彼は知り合いの兵士からフォルクスワーゲンのバナゴン(バン)をゆずり受けた。アメリカから直接持ってきた車を、帰国するときに置いていくのが普通だった。彼はこの車に焼きたてのパイやパンを積み、デリバリーをしてまわり、やがて大山の1号店に本拠をかまえることになる。

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