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58号線の裏へ 駒沢敏器
第2回 ジミーのパイは知っている
 帰宅した僕は、同居人とパイの試食会をすることにした。そのときはまだ沖縄を体験していなかった彼女にとって、かの地の土産がなぜリンゴのパイなのか、すぐには理解できないようだった。箱に描かれているアメリカ風のロゴを珍しそうに見て、「この『ジミーズ』というのは沖縄のメーカーなの?」と彼女は訊いた。
 ジミーさんが誰であるかは知らないけれど、沖縄の人は日本に復帰するずっと以前から普通にこのパイを食べていたはずだ、と僕は伝えた。基地の存在はたえず沖縄を抑圧しているはずなのに、そこに住む人たちの味覚がアメリカと共通していることに、彼女は少なからず驚いた。沖縄がアメリカの文化を受け入れていることと、それが定番になっていることへの、二重の驚きだ。
「72年まで、沖縄は日本ではなかったんだよな」と、僕は周知のことを今更ながら確認するように、パイをまえにして呟いた。その間、日本は高度経済成長に浮かれ、沖縄など存在しないかのように振舞ってきた。その忘れていた時間の空白を、アップルパイはタイムカプセルのように僕の部屋へ運んできた。
 蓋を開けると予想どおりの濃厚な香りが放たれ、ナイフを入れた表面はしっとりとしていた。崩れあふれそうになるアップルをナイフで支えつつ、2枚の皿に、切り分けたパイを1片ずつ置いた。僕たちは黙ってパイを食べた。
 最初のひと口から美味しかった。洗練の度合いを上げた日本のアップルパイにはないような、アメリカの家庭の甘さだった。しっとりとした皮はフォークを入れてもぼろぼろと崩れはせず、リキュールを含んだアップルを口のなかで力強く包みこんだ。甘いのに飽きることはなく、さらにもうひと口を食べたくなり、やがてその甘さに慣れてくると、なぜだか懐かしく心が平和になってきた。これなら定番になってしまうはずだ。毎日のように食べようとまでは思わないけれど、ふと目にしたらついつい買ってしまうだろう。
 いい意味での凡庸さを残した甘みと香りに、初めてこれを口にした沖縄の人は何を感じただろう。やはりそれは羨望だろうか、それとも憎悪と紙一重の共感なのか。フェンスで隔てられた向こう側とこちら側が、たとえばこのようなパイを通して接点をじかに持つとき、そこにはどんな交流があったのか。僕はこのアップルパイの生誕を知りたくなった。それくらいに、ジミーのパイは日本のパイとは決定的にどこかが違っていた。
 ジミーのアップルパイを地元の人がどう思っているのか、その後僕は何人かの知人に訊いてみた。電話でもメールでも、「ジミー」の名を知らない者はもちろんひとりもおらず、誰もがやや興奮するように反応した。
「子供のときは憧れだった」という人もいれば、「このあいだ急に甘いものが食べたくなり、車で寄ってしまった」という人もいた。
「大和人なのにスルドイところに目を付けたものですね」と妙に誉めてくれる人もいたし、「あれなしでは、戦後の沖縄は語れないかもしれません」と言い出す人までいた。
 地理上の関係で「ジミー」に普段は接触することの少ないコザ出身の知人は「ジミーなんかよりも、コザにある『なつのや』のパイの方が上だ」と、ライバル意識をむき出しにしてきた。とにかく「アップルパイ」という言葉に、誰もがはっきりと反応することだけは確かだった。
 そのなかでも有益な情報をもたらしてくれた人物がいた。彼は団塊の世代に属し、ベトナムと戦争をしていた頃の基地の空気を、肌で体験している。気が付くと家のなかは米軍の放出品だらけ、体にアメリカ文化の血が流れているような彼は「ジミーといえば、子供の頃の南沙織(本名:内間明美)が店で遊んでいたのをよく見たものです」と、興味深い逸話を前置きして、さらに言葉を続けた。
「確か先代の社長は基地のベーカリーで働いていて、パンを焼く技術と味を民間にひろめたと聞いています。だからアップルパイにも、当時の味が残っているんじゃないかなあ」
 この言葉を聞いて、一気に毛穴が開いた。戦後まもない頃の基地と、当時の沖縄人を結ぶ接点に、やはりこのアップルパイはあったのだ。定番化している今では、誰もそんなことまで意識して口にしてはいないだろうけれど、沖縄がどのようにして支配者のアメリカと接してきたのか、その黎明期の記憶をジミーのパイは残しているはずだ。それはもはや忘れられようとしている物語の一片であり、現在の沖縄をつくってきた原点でもある。
 たかがアップルパイになぜ執拗にこだわるのか、そのおさらいを手短にでもここでしておかなければならない。まず現代の沖縄は、3つの「ゆー」を体験してきたと言われている。最初は「うちなー世」と呼ばれ、琉球王朝が統治する独立国家だった。中国および薩摩藩に大きく干渉される現実はあったものの、基本的な実権は自らの手にあった。
 しかし1879年の廃藩置県により琉球は処分され、沖縄県が誕生して王朝を失った沖縄は「大和世」となる。一方的に日本にさせられた挙句、太平洋戦争末期にはアメリカ軍の本土上陸を防ぐための捨て石とされ、夥しい犠牲者を出したのは周知の事実だ。
 そして戦後は、戦勝国アメリカ(というよりは軍隊そのもの)に支配され、「アメリカ世」となる。ちなみに浦添市には「アメリカ湯」などというふざけた銭湯が今でもあり、笑っていいのかどうか迷ってしまう。
 本格的な統治が開始された1948年からの10年間は、沖縄の通貨は「B円」(Type B military Yen)と呼ばれ、復帰の72年まではドル紙幣が使用された。このとき米軍がまずおこなったことはインフラの整備であり、軍用機が緊急着陸できる幅を持った軍用道路「軍用1号線」(那覇から嘉手納を経て名護にいたる)が完成する。
 そして復帰後は再び「大和世」となり、1号線は「国道58号線」へと名称を変える。いまでもこの道路は最も大きな幹線であり、地元では「ゴッパチ」と呼ばれている。
 このように支配者が変わるたびに沖縄は対応の変化を余儀なくされ、文字通り振りまわされながらも、独自の文化性を固持してきた。そして、その都度「文化的ハーフ」と言ってもいいような〈混血児〉が、当の人間のみならず商品や音楽のなかにも多数生まれた。
 支配者の文化をやわらかく呑みこんでいきながら、それでも独自性を失わないこの在り方にこそ、僕は「ほんとうの沖縄」を見る。伝統芸能となりつつある琉球民謡よりも、コザで生まれたロックや、タコスの具をご飯に乗せたタコライスの方に、沖縄を強く感じてしまう。画一的な意匠として安易な自己表現になっている琉球赤瓦よりも、コンクリート・ブロックの家屋にこそ民間の生々しいタフさと柔軟さ、生活者としての息遣いを感じる。
 しかも「アメリカとの混血文化」が次つぎと産声を上げて増殖しているあいだ、僕たち日本人はそんなことを何も知らずにきた。45年から72年の27年間にいったい何があったのか、今ではもうわずかながらに現存する証拠を頼りに、58_2.jpgその小さな糸口を広げて追体験から想像を重ねていくしかない。そしてそのひとつが、たとえばアップルパイだったりもするのだ。
 軍用1号という幹線は戦後の歴史をずっと見つめ続け、そして今では58号線となっている。いまだにいくつもの基地を結んでいるこの幹線を限りなく上下移動しながら、何がそこで生まれたのかというバック・ストーリーを紡いでゆくことが、この連載のテーマだ。
「58号線の裏へ」というタイトルは、そのような意味で付けられている。

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